大阪池田のLargoでの展覧会はじまりました。


大阪池田のアートスペースLargoでの展覧会「東日本」と「とうだい」の原画展
2月18日より始まりました。

水曜日が休廊日で3月5日までの会期になりますが、
2階と3階のギャラリー空間をとても美しく仕上げられた自負しておりますので、
みなさまぜひ足を運ばれてくださいませ。


ラルゴさんでの展覧会開催はこれで3度め。

2013年の1度目の「東日本」の巡回
http://www.yakuin-records.com/amigos/?p=9168
2014年の2度目の「東日本」の巡回と「ちいさいトラック」原画展
http://www.yakuin-records.com/amigos/?p=10452
2015年3度目の「東日本」は巡回させず今回。

前回から2年8ヶ月。
「あれ、そんなに時間が経っていたっけかな? 」などと思うほど
毎回とても印象深い経験と人との出会いを与えてくれる場所。

今回もオーナーの遠田さんご一家、
とりわけお母様から絶大なるご厚遇をいただいての開催。

単に青山や横浜の巡回ではなく、
2017年2月の大阪池田にふさわしい展覧会にしなければと、
2015年の作品を交えた51点の作品で空間を創りました。


初日にはオープニングパーティーの代わりに「とうだい」の朗読。
これは遠田さんごご懇意にされている女優さんが勤めてくださり、
ボクはの「とうだい」の作画にまつわるトークの時間を設けていただきました。

が、
描いた絵を説明するのもヤボだなと、
集まった子供たちがゲラゲラ笑えることをやったり、
オトナに向けては絵を描くWS的な形で楽しんでもらいました。

設営からワークショップまでかなるヘトヘトになりましたが、
池田の人情商店街のギャラリーからクリエイティブななにかが生まれることこそ、
「東日本」なんて絵を展示する意味があるはずです。

で、展覧会の風景からちょっと。

2011年3月11日からそろそろ6年。

大阪池田の「東日本」と名付けた展覧会に足を運んでくださる方との会話の中で
「震災」と言えば「阪神淡路」であることが多かったです。

何人もの方とかなり真摯な言葉の交換をさせてもらいましたが、
今「阪神淡路」を語ることの健全さを痛感させられることばかり。

そこにはリアルな命の問題が含まれていたりしますが、
22年前の1月17日は未だに「昨日」であり、
しかし、いくつかのことは言葉に出来るようになってきた。

そこに「東日本」と名付けた絵があるからこそ出来た会話の意味は、
微力でしかないけれど、今度は東北に、熊本にとボクが持ってゆかねばです。


展覧会初日でわさわさとした中でも、
なんとか1人ひとりを見失わず、1人ひとりを肯定し接することが出来たのは、
やはり大阪であり、池田という文化の街であり、ラルゴという心意気のおかげでしょう。

ごく個人的な会話なのでその詳しい内容には触れませんが、
ボクはお一人お一人と交わした会話は「阪神淡路」に限らず、
お子様の思い病気のこと、ご自身の重い病気のこと、
イマイチ上手くゆかない日々のことや深い心の痛みのことなどなど、

「はじめまして」の方も多かったですが、
ボクの描いた絵や絵本をきっかけに語ってくれることで、
ボクが創ったものはさらに輝いてくれてるように感じました。

そういう1人ひとりのことに対してボクが何かをしてあげられるはずはなく、
(それこそご利益商売になっちまうぜ、、)
しかし、さらにこんな会話を重ねてゆけるための
人の想像の余地のあるものを創るモチベーションを高められました。

2月18日の池田に足を運んでくださったみなさん、
ありがとう。

Largoは3月5日まで灯台のようにして在ってくれます。

ボクは不在ではありますが、
みなさまはどうぞLargoに足を運ばれ、絵の前で言葉を交わすことで、
次に進むべき場所を確かめてくれたら幸いに存じます。

しかし、わずか2日の滞在だったけど、
青山と横浜の展覧会の20日分の人の情を浴びて
20日分ヘトヘトになったのは
やはり大阪という土地のなせる技。

東男はともかく働いて見せてナンボだなあ〜〜

で!
遠田さんのお姉さんが切り盛りする1階のカフェ
ミナツキでいただいた茶粥のセットが滋味深くておいしくて、、
ほんと、こんなん毎日食いたい!

うかがえばお姉さん、かなりお茶の研鑽をされたらしくて、
そんな心意気が味わいにちゃんと反映されていて、
そんなお店の軒先をかりて展覧会できていることに胸襟を正しつつも幸せを感じ、
東京に帰る新幹線に飛び乗ったのでした〜。

絵本「とうだい」原画展/「東日本」小池アミイゴ個展
2017.2.18(土)-3.5(日)

11時〜18時(最終日は17時まで)水曜休廊
http://ameblo.jp/artspace-largo/entry-12239019447.html

Art space Largo
〒563-0058大阪府池田市栄本町4-23 EINビル2F 3F
*池田駅より徒歩5分、1Fのカフェミナツキよりご入場ください。
Tel.Fax.072-737-5837
MAP : https://goo.gl/maps/jnB75ETbcXw

絵本「とうだい」や「かぜ ひいた…」、
「Peaceてぬぐい」の販売もしております。

&Premium「学びたい。」


マガジンハウスのアンドプレミアム4月号のテーマは「学びたい。」
池袋コミュニティカレッジで開講してる絵のセッションのことを2ページで、
編集者Sさんの実感と共感を持った言葉でもって紹介していただいております。

そうしていただけることで、自分が何をやっているのか言語化出来るということにおいて、
雑誌記事と言えどクリエイティブなセッションでもあるなと、
何より毎回がボクにとっても「学び」の現場であること、
その辺まで誌面に反映してくれてたりで、ありがたいっす!

今号のアンドプレミアムの語る「学び」は、ともすると「ご利益」に陥りがちな情報の発信とは一線を引き、
1人ひとり自からが未来を豊かにしてゆくべきとの凜とした意思を示しているように受け止めました。

お茶、ペン字、一汁三菜、所作、言葉、禅などなど、これまでだと保守的に見られたであろうことに、
未来ををしなやかに生きる術と美しさを見る発想は、
今の時代において意外や世界をより間近に感じることでもあるように思います。

ともかく全編にわたり良い編集!
Sさんありがとう。

池袋コミュニティ・カレッジのボク絵のセッション
http://cul.7cn.co.jp/programs/program_701881.html

&Premium 4
http://magazineworld.jp/premium/premium-40/

2/24はるのおがわオトナワークショップ


2月24日(金)代々木エリアのワルイ子たちのの拠点「渋谷はるのおがわプレーパーク」主催で
大人に向けたボクのワークショップがあります。
詳細はこちら> http://harupure.blogspot.jp/2017/02/blog-post_9.html

てのは、
ボクの暮らす渋谷区で”はるプレ”のみなさんとで
「子どもアートセッション的」なやり方で街を楽しくする作戦を進めてくれてるんだけど、
行政からOKを引き出す上で超えなきゃならない山があるなあ〜と。

ところでボクたちの言語が揃わぬまま「あいつら分かってない」とか吠えてるだけじゃダメだなあ〜、、
そもそも子どもに向けてつい「自由にね〜」とか言ってしまってる我々は自由なのか?
つか、自由ってなんだ??
いや、それはもう我々は日本人だからね、「自由に」とか言われたら一生懸命自由を演じてしまうよね〜〜、、
なんて会話の先で、

まずは子どもたちにアプローチしてゆく前に、オトナの頭を破壊しておこうってことで開催と相成ります。

告知が始まってさっそく予約が入ってきてそろそろ定員。
しかも、かなりの方がお子さん連れという今の時代のリアルを目の前に、

あらためてこんな形での街づくり地域づくりに興味ある人がいたら参加しないかなと、
日本の公園の最先端”はるのおがわプレーパーク”がどんな人によって運営されているのかもわかるし、
画材その他オレが持ってゆきますよ〜!

はるプレHP
http://harupure.net

2/18~ 大阪池田で展覧会開催


2月18日より大阪池田のアートスペースLargoで
とうだい」と「東日本」の展覧会始まります。

絵本「とうだい」原画展/「東日本」小池アミイゴ個展
2017.2.18(土)-3.5(日)

11時〜18時(最終日は17時まで)水曜休廊
http://ameblo.jp/artspace-largo/entry-12239019447.html

Art space Largo
〒563-0058大阪府池田市栄本町4-23 EINビル2F 3F
*池田駅より徒歩5分、1Fのカフェミナツキよりご入場ください。
Tel.Fax.072-737-5837
MAP : https://goo.gl/maps/jnB75ETbcXw

会場では絵本「とうだい」と「かぜ ひいた…」
「Peaceてぬぐいの」販売も行っております。

=イベント =
絵本「とうだい」を読みます
18日(土) 14時と15時、それぞれ5分ほど。

ボクのお話しタイム
絵本「とうだい」ができるまで
18日(土) 15時10分から30分程度

※両イベントとも参加費・申込み不要です。

会期中ボクが在廊できるのは2月18日だけになりそうで、
お時間ある方はぜひ足を運ばれてみてくださいませ。

*「東日本」
http://www.yakuin-records.com/amigos/?p=12782

*絵本「とうだい」
http://www.yakuin-records.com/amigos/?p=12572

71ヶ月め


今日は2011年3月11日から2164日め
5年11月
71回目の11日です。

先日宮城県を中心に発行されている新聞「河北新報」に掲載された、
県内に暮らす18歳の人の投稿がネットでシェアされてきたのに出会い、
考えさせられました。

以下一部引用します。

2011年3月11日からの地震、津波、原発事故発生後、震災に意味付けをする人がたくさんいた。
「絆ができた」とか「家族を大事にするようになった」とか、建前でいう人がいっぱいいた。
だが、そんなものは震災前にだってあった。
震災が起きたことに意味なんてない。起きない方が良かったに決まっている。
だから私は、震災を都合よく語ったりしない。
あの日起こったことを、自分の記憶に刻む。ただ、それだけ。

まさにその通りだと思います。

もうちょっと言えば、
「絆」も「家族を大事に」も消費しやすい言葉に置き換えられてしまったなあと。
少なからずの違和感を感じて、まもなく6年です。

ただ、
2011年3月に13歳だった人にあやまらねばならぬことがあります。

震災の前に「絆」も「なにかを大事にする」こともあるにはあったけれど、
ボクたちオトナの多くはそれを大事にしていなかったはずです。

3万人が自殺をする国にあって、
「絆」なんてめんどくさいことなるべく考えにようにして、
それぞれがそれぞれの場所で演じるキャラを大事にするだけの、
とてもモロい関係性の中で孤立感を深めていた。

極端なたとえかもしれませんし、すべての人がそうであったわけでもないけれど、
しかし、それがボクたちだったのではないかと思うのです。

2011年3月11日、ボクたちは考えました。
考えざるを得ないものを見ました。

絶対的な喪失

しかし、
困難を乗り越える人間のしなやかな力強さ

ただその実感を共有することは容易なことでは無いとの直感は、
大きな無力感に変わり、多くは手付かずのまま今に至っています。

そんな中「絆」のような言葉に、ある意味すがってしまったはずです。

もしくは無自覚なまま「がんばれ」「立ち上がれ」なんて言葉を放つも、
結局自分自身を奮い立たせてるだけのおじさんたちとか、、

今18歳になった人の語る
『あの日起こったことを、自分の記憶に刻む。』

それだけの勇気を持てなかったボクたちです。

それでも願うことは、今からでも遅くない、
「絆」でもなんでも本当に大事にして育ててゆきたいなということ。

絶対的な喪失に対してなにか出来るはずは無く、
悲劇は悲劇のまま静かに胸に刻み、
しかし、ボクたちに足りていなかったものを1つひとつ確認し、
これから未来、特に18歳とか12歳とかの人にとって好ましい未来に必要とされるものに、
みんなして育ててゆけないかな。

18歳の人の静かな叫びに答えられるかどうか自信無いけど、
自信無い部分は、志を共にする人を見つけ、語り合い、
しなやかに力強いものへと育ててゆこうと思います。

以下、
先日東京-横浜での会期を終えた展覧会「東日本」から思うことをちょっと。

ボクのやっていることをザクッと言葉にされてしまうと、
『「被災地」と呼ばれる場所を歩いて絵にしている』です。

しかし、ボクはなにを見ているのだろうか?

4度めの開催となった今回、
あらためて自分の視線というものを考えてみました。

特に今回は、ギャラリーに足を運んでくださる方の多くが、
実に的確にボクが描いたものの本質的なものを言葉にしてくださり、
4度重ねてきた意味の深まりを感じながら、
自分の視線というものを知ることが出来たかもです。

生きる、というか、暮らす、という中で、
ボKうたちはものを見ているようで、
実はほとんどのことを思い込みで感じているんでしょう。

「見る」ということは「見なければいけない」という意識の指示で行われるのだけど、
その背景にある思惑で都合の良いものに置き換えられている。

意思を持って見てるものの多くは、
実は「見ているつもり」のものなんだろうなと。

なので、絵を描く場合も「見ているつもり」のものに惑わされて、
どうにも「見た」感動の本質に触れられないでいる座りの悪さを感じてばかり。

今回の展覧会を通して、
「わたしこの風景の場所に住んでいるんです」
「わたし、この風景の場所に行ったことあります」などなど、
リアルな既視感をもって絵とご自身の経験を語ってくださる方がいて、

そんな方の話を伺っていて気がついたのは、
ボクたちは目の端で見ているものが莫大にあって、
それは「見ているつもり」でいるものなんかより
ずっと多くの情報量をボクたちの無意識にもたらしてくれてるんだということ。

「見る」という意思の働かぬところで見ている「暮らしの風景」

それは大きな揺らぎと広大な曖昧さを有するものです。

たとえば車を運転して山道を走っているとします。

ボクたちの目は道路を見て、センターラインの位置を確かめ、
道路標識を確認しながら対向車を気にする。
たまにやってくる名所と言われる場所に視線を飛ばし、
時が進むにつれ変化する陽の光に対応し車をオーガナイズさせる。

そうやって視線を駆使させてゆくのだけど、
目の端で一瞬にして過去へ追いやられてゆく道路の脇の雑草や雑木林の灰色の風景、
なんちゃーことない人の家やつまらない庭木、見栄えのしない山並みや退屈な雲、
ぼんやりした午後の光や昨日だか一昨日に降った雨による小さな水溜り、などなど。

ユラユラ揺れて消えてゆく日常の風景。

ボクたちが想像力をそそぎ大切にし共有するべきものは、
こんなものの中にあるんだと気がつきました。

こじつけになるかもしれないけれど、
「復興」と言った場合、意思をもって視線を注ぎ造られる
防潮堤やかさ上げ工事や道路や病院なんてものがあるのですが、
もちろんこれはそれぞれの道のプロが取り組み、
その土地土地で必要とされるカタチで迅速に提供するべきものでしょう。

ただ、ボクのようなものがやるべきことは、
目の端に写っているはずの日常をどんなものにするのか?

非常に曖昧に揺れ動く領域ですが、
そこが1人ひとりの人生の揺りかごになるような優しきものであればなと。

「復興」の名のもとで開発の進む土地でも、
わずかの余裕を見つけられたら、
日常の中で目の端でとらえ消しとばしてゆく風景を、
ちょっとでも豊かなものに出来たらいいなと。

どうしようもなく微力ではありますが、
そんなものに光を当てる仕事を続けてゆこうと思っています。