‘3月11日からの備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

179ヶ月め_会津から豊間へ

2026 年 2 月 11 日 水曜日


今日は2011年3月11日から5,451日
778週5日
14年11ヶ月
179回目の11日です。


先日は福島の郡山から会津若松、そして奥会津の柳津と巡り、県立博物館の学芸員チームとこの1年の『会津の食にまつわるプロジェクト』の振り返り。
関わったみなさんと再会し、そこで何があったのかを思い出しながら語り合いました。
子どもたちに関わることの多いプロジェクトだったので、やはりそ『の後の子どもたちはどんなか?』それぞれ責任を感じながらもオープンに話すことが出来てよかったです。

今の小学生は『物心ついたり』『自我が芽生えたり』のタイミングでコロナ。
社会に触れるほとんどの場面で、マスクで顔を覆われた大人からモラルを守ることが求められることを経験してきた人たち。

そんな子どもたちに対し自分がやるべきことは、アートを手段とした気持ちの良い体験から自己肯定感を得てもらうこと。絵を描く紙の上では、無理して良いことを語る必要も無く、好きな色を気持ちよく塗るようなことで心を開いてもらえたらいいなと。大切な話があるならその後で良い。


気がつけば、今向き合う子どもたちば2011年3月以降に生まれた子どもたちなんだなと、、
時が過ぎる速さに慄きつつも、それでも「まだ15年」との思いもあり、今回。

会津から浜通りまで移動、震災後にボランティアで入り、その後定点観測的に足を運び続けてきたいわき市の太平洋岸のビーチ、豊間を目指しました。

しかし豊間、定点観測的に足を運んだと言うも、いつぶりか?と振り返ってみると、コロナ禍突入直前の2020年1月11日ぶり?6年ぶりになるんだ…

「この6年間に何があった?」と振り返るも、2020年コロナ初年に小学5年生だった息子が今は高校1年生になったという時間軸に、自身の仕事や社会的活動の記憶の断片が、時系列を無視する形でランダムに置かれ捻じ曲がり、メビウスの輪のような無限ループになってるのを想像しちゃうのだが…


『東日本大震災からの復興』というテーマで歩み出しように見えた社会は、自分が思ってたほど真っ直ぐな道を選ばなかったんだろう。そこに「いつでも個人的記憶を取り出せる」ネットにシフトしたメディアのあり方が掛け合わさり、時間という概念がネジれ、自分の時間の圧縮や記憶の混乱なんてことが起こっているんじゃないか?

ただ、豊間エリアにある塩屋崎灯台を参照し描いた絵本「とうだい」が今年で発刊10年。
そんな確かな時間軸もあり、今回個人的な検証として、ボランティアから個人的のフィールドワークにシフトし歩いた塩屋崎や豊間で、自分は何を見て、何を見落としていたのかの確認はしておきたいぜ。

会津若松から磐越西線、磐越東線と乗り継いで夜に着いたいわき。急遽とった宿はJRいわき駅に隣接したビルに新設されたもので、そういやこんなホテルも無かったなあ〜。

晩めしを求め街に出てみると、以前はこんなにも見せなかったよな〜。この日は火曜日だったけど、こんな駅前の明け透け場所でキャッチに捕まること無かったよな〜。キャッチをやりすごすした背後から「今夜はダメだな〜」と世界を恨む声が聞こえた。火曜の夜に欲張りすぎ違うか?と思うも、いやいや、みんなそれぞれの事情があるんよ。


明けて朝早くのバスに乗り太平洋岸へ。
途中の真冬の田園風景は、以前よりずっと休耕地が減った印象で、農家のみなさんの努力の跡が美しく広がっている。

初めてボランティアで入った2011年6月。その時の暴力的に破壊された風景に出会い、「これは自分の足で歩いて見なくちゃ」と思い、2ヶ月後には徒歩とランニングを交えて海を目指した。その時の破壊され、ある意味遺棄されたように見えた悲しい風景は、さすがに15年分、きっと良い方に更新されているんだと思った。


これはバスに乗ってる場合じゃないなと、予定よりかなり手前のバス停で降りて、海岸線に沿った道を歩いてみる。

津波被害から7~8年後(?)に整備された運動公園では、多くのお年寄りがゲートボールに興じていて、そこから目を転ずると、以前には無かった立派な老人ホームの建物が見える。
15年前に悲劇に晒された土地で健やかに生きるという選択肢が整えられたんだね。

朝の光に包まれたビーチが美しくて、いつかまた大きな地震や津波があるかもしれないけれど、人間がこの土地を選んで暮らすという選択はごく自然なことと思えた。
ただ原発事故は人が作り出してしまったとても不自然なことなんだ」とも思ったよ。


波打ち際から丘の方に目を転じると、6年前には完成していた高い堤防が白く輝き、その向こうには復興のための造成の必要から切り崩され、稜線を変化させた山の姿が見える。

火曜日の朝、ここまでですれ違った人は無く、遠くに堤防の上を歩く人の姿が見える。

以前は立ち入って良い雰囲気の無かった岬に出てみると、立春の陽の光に包まれた灯台のある塩屋崎の岬が、太平洋にグイッと突き出て見えたのが、実にカッコよかった。


津波による多くの被害者を出した薄磯エリアの整備は進み、被害の爪痕が生々しく残された頃、造成による盛り土で月面のような風景に思えた頃の記憶が更新されてゆく。
6年前、海岸線に沿って何キロも渡り『防災緑地』として整備され始め、松の苗木などが植えられていた場所は、自分の背丈より高い木々に覆われた緑のベルトに育っていた。

↑ 6年前の写真
6年後の写真 ↓

これからさらに何年も時をかけて立派な緑地に育ってゆくのだろうけど、自分はそんな風景を確かめられるまで生きているのか?


6年前には無かった『いわき震災伝承みらい館』に入ってみる。
まず「入場無料」ということが多くを語っているなあ〜。

展示を見ると、知っていたことが少し。あとはほとんど知らなかったことばかりか…

なんだけど、自分の記憶の多くは15年前の春でフリーズさせているなあ。

東京に暮らす自分がそんなであれば、ここでの生活があった人の今はどんなだろう?

自分は想像するしかないんだけど、でも今ここにいることは間違いじゃないように思う。

さらに歩いて塩屋崎へ。
干潮のタイミングで、岬は穏やかに見える。

灯台の立っているのは、岬の先端じゃなく、ちょっと奥まった場所だったっか。
上書きされた記憶を修正する。

昼が近づき腹減ったなと思い、以前は開いていなかった土産物屋や食堂を覗き、でも思い直して塩屋崎の向こう側、豊間のビーチを目指して走る。なんでか走りたくなった。

豊間。

ああ、こんなに美しかったっけかな。

ビーチに出てみると、強い風に煽られた白い砂が川のように流れ海に注いでいる。

石英を多く含む砂は、踏みしめると「キュ」と音を立てる鳴き砂。
よく見ると多くの貝殻が打ち上げられていて、これも時間をかけて白い砂に変わってゆくんだね。

震災から3ヶ月後のボランティ活動の際、このエリアの町会長さんは「震災で砂浜が失われることがとても悲しい」と語っておられたけど、もし今もご健在であれば、この風景をどう思うのだろう?

自分はよそ者として勝手に「美しい」なんて思っちゃっているんだけど、でも人に対する想像力は失わずにいなくちゃだ。

後で調べたら、やはりこのビーチの景観を守ろうとゴミ拾いに尽力されているグループはあって、なるほど、今日これまで極端なプラごみに出会っていないのは、そうしたこともあるんだね。


太平洋、というか地球、というか、宇宙の力で押し寄せる波。
それに抗うように吹く陸からの風と低く舞い上がり流れる白い砂、
そうした力の拮抗から生まれる描くことの出来ぬ紋様を魅せる砂浜。

この世界には人間が我が物顔で居て良い場所はどこにも無いと思ってしまったんだけど、みんなはどう思うのだろう?
先回りせず、1人ひとり確かめてゆけたらいいな。


堤防を超え集落に入る。
真新しい住宅が並んでいる。

「復興」という言葉ではなく「再興」という言葉が浮かぶ風景。
それをより良いものに変えてゆくためには、何が必要なんだろうか、「ここでは無い場所」に暮らしている自分も考え続けなければならない。

震災直後から根性で営業再開したコンビニは、以前の場所から数百メートル移転して営業していて、それは前回と変わらず。ただ、周りの木が育ち、初めて来た場所のように思えた。

Googleで検索すると営業している食堂がいくつかあった。
ひとつめ、営業してなかった。
ふたつめ、駐車場に多くの車があって、よしここで食事しよう!と。
しかし、現金しか使えないとのこと、財布の中の3,000円で食べられるのはエビフライ定食くらいで、名物の鰻重は、今度だな…


しょうがない、3,000円ちょどくらいになるようビールの中瓶を一本頼むと「お車ではないですか?」と当たり前の質問。
「いや、歩きできました」と答えると、しょうがない、そりゃ怪訝な顔されるわな、、

10km以上歩いたからなんてこと関係なく、ほんと美味しいエビフライ定食を食べることが出来た!
こんなん15年前には考えられなかったことだよ。

お店の方にうかがいことが山のようにあったんだけど、でもそのほとんどはこのエビフライが語ってくれたはずなので、「また来ますね」とだけ伝えてお店を出た。

うん、やっは次はぜひ鰻重を食べたいぜ、豊間。

 

 

178ヶ月め_香港レポート

2026 年 1 月 11 日 日曜日


今日は2011年3月11日から5,420日
774週2日
14年10ヶ月
178回目の11日です。

震災から3年目の能登。
東日本の経験から、被災された方の疲れはピークを超えているんじゃないかと想像します。
皆様どうぞうご健康であられますよう、心よりお祈り申し上げます。

東日本は今年の3月11日に「15年」「節目」などと言われるかもしれませんが、
この15年でボクが出会ったきたのは「1人ひとり」というものなので、
引き続きただただ寄り添い並走する気持ちでいたいです。

復興の途上で失われてしまった方も少なからずおります。
そうした方々の意思を、被災の対岸で暮らす自分も大切にし、
これからの社会に活かして行かなければならないと、あらためて強く思う今年の年初でした。

みなさま、引き続きよろしくお願いいたします。


昨年12月20,21日、香港で開催された香港イラストクリエイティブショー10に参加しました。

イラストレーターズ協会のご縁で主催者と知り合い、現地に立ち会うのはこれで3回目。

これまでは協会のバックアップも受けて参加していましたが、
より自由に、より責任を持ったブース運営をしたくて、今回から個人でのエントリー。
ですが、アジア圏でイラストレーションの可能性を探りたい仲間を募って、
主に日本の年賀状にフォーカスしたグッズ販売を行いました。

今回何より、高校1年で16歳の息子を同伴させたことで、多くの気づきを得られました。

そんな息子とブース前で記念撮影。

背景のイラストレーションは、やはり今回お誘いしブースをシェアした京都在住のイラストレーターcacoさんの手によるもの。

過去にも積極的に香港の企画に参加くださって、現地でじわり人気が出ている彼女。
「こんなブースだったらいいな」という要望に、短期間でめちゃくちゃ頑張って応えてくれて嬉しいです。


おかげさまでブースは大盛況。
英語も広東語もまるっきりダメな自分を、英語が得意な息子が現地スタッフとの連携しフォローしてくれたこと、ありがたかったな〜。

今回グッズ提供をお願いしたイラストレーターの仲間には、香港の方に手に取ってもらえるちょっとしたアドバイスをしました。それもまずまずハマったんじゃないかな。


ボクが初めて香港に行ったのは2019年8月。民主化デモが行われていた時です。
日本の報道やネットの情報からその激しさを知るも、現地に行ってみると活気のある香港と出会うばかり。
香港の多くの方はネットでデモの情報を得て、自身の仕事や生活を優先した行動をとっていた。

あれから6年。
個人的に1年半ぶりの香港は、眼に見える部分では変わらず、ダイナミックで朗らかで優しい、そんのイメージ。
飛び込みで入る街の飲食店でも「ああ、日本人か」みたいな感じで、言葉の壁を超えた対応を頂きました。

何より「kawaii」を必要とする香港の若い人たちの存在が、うれしいんよね〜。

渡航する前は「なんで今ゆくのか?」などの危惧もされたけど、いや、そこに絵やイラストレーション、かわいいものを必要とするから行くんだよと。

で、実際に行って絵やイラストレーションを間に置いて人と向き合うと、簡単に飛び越えることの出来る国や政治体制、民族の違いがある。

日本でも香港でも、どこでも、自分が向き合うのは「ひとり」というものであり、その基本の上で『なぜ香港の方が「kawaii」を必要とするのか』を想像することで得られる、クリエイティブなモチベーションが尊い。

そうしたことを、16歳の息子はよりフラットな視線で見てるわけで、食事をしながら「どうだった?」なんて会話が出来たことも大きな財産になりました。


巨大なコンベンションセンターの中のひとつのホールで開催されている香港イラストクリエイティブショー。
その階下ではポケモンの発表会に多くの人が集まっている。
その隣ではAIを使ったアートやデザインの展覧会に、また多くの人が集まっている。
(AIに関して、韓国も中国も日本よりかなり先を走っているイメージ、、)

日本の16歳、何を思う?

で、今回。
主催者がボクのためのライブペインティングのブースも用意してくれたので、ならば自分の勝手な絵を描くんじゃなくて、会場に来られた1人ひとりを描いてみることにしました。

ひとりに対しスケッチして着彩まで5分ほどで行うのを、2日で約4時間半、54名描いたのですが、
疲れた〜〜…
が、それ以上に楽しかったなあー


この画像は描き終えた絵をスマホで撮影した荒い写真を、Photoshopでブラッシュアップしたものだけど、なかなかの雑な絵ばかり。。
なんだけど、現場で向き合い描いたからこそのリアリズムがあって、やっぱ愛しい。

にしても、モデルになってくださった方に申し訳ないぜと、この絵をさらにスケッチする感じで1人ひとり描き直しをしています。


なんでこんな作業をしているのか?描きながら気がつくのは、香港で向き合う人の「キャラ設定されてなさ」。
いわゆる「〇〇系」に自身を押し込んでいない。だからか「キメ顔」が無い。その人なりの「キメ顔」があったとしても、それは「憧れの何者か」になるためでなく、「その人が背負っている何か」が滲んで見える表情だなと(これは台湾でも感じたことだね)。なので「描かなくちゃ」って強く思うんだろう。

香港では二人組、特に女性の二人組をたくさん描きました。
そんな二人組が纏う幸せそうな空気が愛しくてね、この2人の風景は描かなくちゃ!と、ついつい必死になってしまう。


日本でもこんな二人組に出会うけど、纏っているものがちょっと違う。
その違いが面白いのだけど、香港ではより自由なるものを感じるのはなんでだろう?

そんな話も息子と出来てよかった。

スケッチの最後の方でお母さんと娘さんの二人連れを描いたんだけど、2人がギュッと手を握り合ってる姿に、なんだろ、非常にドキドキした自分です。

という感じで、強烈な筋肉痛に襲われたライブペインティングも終了。

ああ、良い出会いばかりだった。

この経験からさらに自分は、自分が描くべきものと人が必要とするものをしっかり噛み合わせて、なんなら人ひとりを救えるくらいの「kawaii」を創ってみたいぜ。

香港のみなさん、また元気で会えましょう!

 

177ヶ月め

2025 年 12 月 11 日 木曜日


今日は2011年3月11日から5,389日
769週6日
14年9ヶ月
177回めの11日です。

今日は近所の小学校6年生と地域の壁画制作。
2018年から9回に渡って制作してきた壁画、子どもたちと学校と親と地域と自分とが連携し、街にとって幸せな壁画を制作してきたプロジェクト「とみがやモデル」の発展版。


渋谷区が先進的に取り組んできた子どもたちの探究的な学びの教育プログラム「シブヤ未来科」をフルに活用し、地域の課題を探究的に調べてきた6年生グループと、学校長の挑戦的なアイデアがうまいこと噛み合い、現在ある壁画から学校に続く道沿いに設置された小田急線線路の防音壁に、落書き防止と地域美化を両立される壁画を制作することに。


これを実現させるため、小田急の担当部署と折衝を行ったり、道路使用許可の申請を行ったり。
また、子どもたちが地域の課題に当事者として向き合えるよう、地域の落書き消しを一緒に行ったり。
その他、デザインやイラストレーションを使い地域に貢献するためのセッションを行ったり。


趣味は「火中の栗を拾う」、特技は「矢面に立つ」な自分ですが、

現在高校1年生の息子が大人になった時、どんな人が社会の仲間であったらいいんだろう?
そんなエクスキューズのもと、ともかく子どもたちと一緒に出来ることを重ねてきての今回です。


さて今の6年生。
小学校入学のタイミングでコロナ元年。

「それやっちゃだめ」「それ人の迷惑になるでしょう」
すべての会話がそんな枕詞から始まったような時代に1年生になった彼ら。

自分との関係で言えば、彼らが4年生の時に初めてセッションを行った世代。
その印象は、めちゃくちゃ頭良くてクレバー。
なんだけど、すべてのアクションの頭に「これやっていいの?」のひと言が入るような世代。

コロナの影響は侮れないです。


そんな彼らに対し、どこか何かのきっかけで1人ひとりのマインドにブレークスルーを起こしてあげたい。

自分のようなものが学校に呼ばれて子どもたちと向き合う意義はそこにあるわけです。
が、答えを先回りせず向き合って1年半。

「そろそろブレークするか!?」と思わせる事象がちらほら見え始めると、これまで押さえてきたものがボンと音を立てて吹き出るような瞬間が何度かあって今回。
壁画制作のタイミングとして最高!と真実実行しました。

そのタイミングがベストであったかどうか、1時間15分の制作時間で描いた50センチ幅で50メートルの壁画を見ていただけたらうれしいです。


今回のプロジェクトに利用した「シブヤ未来科」は、文科省が進めている探究的な学びのカリキュラムのシブヤモデルですが、こうした探究的な学びはこれらからの日本に絶対必要なことと考えています。

しかし、子どもたち1人ひとりが探求脳を獲得するには、自分の中にあるものを気持ちよく出し切り、その気持ちよさを誰かと共有できるようなことが必要だなと。それは自分が多くの現場で子どもたちとのセッションを繰り返してきた経験から実感しています。

子どもとの共感の共有のようなきっかけを創れたら、探究的思考が働き出すまで「待つ」といことが保護的立場にある大人には必要とされます。

そうして探究的思考が働き出しても、安易に成果を先回りして求めず、子どもたちの成長と楽しく並走するようなことも必要です。
自分が子どもたちと向き合った感じだと、子どもたちと出会って1年半は「待つ」ことの必要を感じています。

が、そうして子どもたちと付き合ってみた1年半後、子どもたちは自分と対等の立場で話しかけ、質問し、一緒に考えるようになってくれます。

そうなれば、自分のような者はただ子どもたちの背中を見守るばかり。
いや、ほんとみんないい顔した「人」に育ってくれるなあ〜と。

こうした子どもたちの成長が求められる時代ではありますが、それをすべて学校や先生に任せてしまうと、学校の現場はパンクしてしまうので、保護者や地域や企業や自分のような専門家も学校の力になり、理想的な子どもたちの学びと成長をバックアップする必要があります。

自分の場合は、週に1時間とか2時間の時間を子どもたちのために使うだけですが、それでもそこでの子どもたちの成長は絶大なわけで、その成長は自分の人生の喜びであるなあと。

その喜びは自分の「幸せ」の価値観を思いっきり良い方に更新させてくれるのです。

今回の壁画実現のために、子どもたちや担任とのミーティングから、PTAk、地域、行政、企業などなど、多くの方と語り合い、お力添えをいただいてきました。

そして本番。見守りや片付けを手伝ってくださった子どもたちのお母ちゃんたちと交わすひと言ふた言がオープンで、豊かで。。子どもたちを主語で語ることで、自分たちはこんなにも豊かな会話を持つことができるんよね〜。


にしても、絵を描くことを「アート」や「芸術」という枠に押し込め、何か特別なことのように語ってしまうのは、もったいない。

身の回りの課題を解決するための整理や、人とのスムースなコミュニケーション、ディスカッションの大まかな方向性を共有する手段として。さらには、この課題解決にはどんな学びが必要なのかを導き出すため(従来の国語算数理科社会の学びを受け身では無く能動的に学んでゆくきっかけとか)、絵を描けばいいのにな〜と思うのです。

そうした経験を持った人なら、AIに独創的で適切で社会に有益なプロンプトを打ち込む力を身につけるはずだしね!

さて、子どもたち。
次はなにをやろうか!?

176ヶ月め_都城

2025 年 11 月 10 日 月曜日

今日は2011年3月11日から5,359日
765週と4日
14年8ヶ月
176回めの11日です。

宮崎県都城市のS.A.Lgalleryでの花の絵の展覧会「花さくところ」
11月9日で会期を終えました。

思いがけずとても美しい展覧会が創れ、
思いがけずこれまで描いてきた花の絵に新たな命を吹き込まれたような、
ほんとありがたい時間になりました。


あと、なんだろう。
絵を見てくださる方々の姿も、とても美しく思えたギャラリー。

それは、
ギャラリーのオーナーでこの場所をスタジオとして版画制作を続ける黒木 周さんやそのご家族、
ここを愛する方々のマインドが、この場所を美しく磨いているのではないかと思うのです。

展示設営が終え、当日開場までの時間を使ってご挨拶文を考えていたら、
東日本大震災前に花の絵を描こうと考えたこと、あれこれ思い出したので、
なるべく飾らず言葉にして、ギャラリーの隅っこに貼っておいてみました。

「花さくところ」について

はじめまして、小池アミイゴです。

この度S.A.L galleryからご縁をいただき「花さくところ」という名の展覧会を開催するこになりました。

ボクは普段東京の渋谷区の富ヶ谷という静かな街で、イラストレーションの制作やデザインの仕事をして、時間に余裕あれば好きな絵を描く生活をしています。

花の絵は2009年の1月、食べるために買っておいた菜の花が台所で花を咲かせているのが可笑しくて、描いてみたら「自分らしい」絵に出会えたことから、今も描き続けています。

その年の暮れには息子が生まれたことで、街や人、花への視線に変化が生まれ、「花を描かなくちゃ」って思うことが増えて行きました。

自分にとって花を描くことは人を描くことであり、それは命を扱うようなことでもあるのだろう。そんなことを思い始めた2011年3月11日東日本大震災発災。多くの人が表現することをフリーズさせた中、自分は被災地を歩き、風景や花の絵を描き続けました。それが出来たのは、やはり自分が花の絵を描いていたからだと思います。

2020年、新型コロナで休校となった小学5年の息子との100日間では、息子に「勉強しなさい」と言わねばならぬ自分に対し、『毎日花の絵を描きSNSにポスト』することを義務付けてみました。

交通量が極端に減った東京の街の、春から初夏にかけての息子との濃密な時間。光も空気も美しい街では、やはり花が美しく輝いて見えました。コロナは大変なことだったけど、でも、何が幸せであるか深く考えられた時間を、今は懐かしく思います。

時を遡って2008年12月末。ボクは初めて都城を訪れました。

セツモードセミナーで一緒に絵を学んだ仲間、玉利くんがこの街で亡くなったと聞いたからです。

福岡から高速バスで都城まで。そこから歩いて西都城駅、さらに川を土手沿いに遡って、S.A.Lに程近い玉利さんのご実家まで。

初めましての風景を眺め、冷たい空気を吸って吐いて、色んなことを考えながら辿り着いた彼のアトリエで、玉利くんが描いた懐かしいチューリップの花の絵に再会しました。

2009年1月、福岡に滞在していたボクは、東京でお世話になっていた友人が末期の癌であるとの連絡をもらいました。「どうしたものか」と思いながら東京に戻ると、食べようとして買っておいた菜の花が咲いていて、ボクは2枚の菜の花の絵を描き、1枚を友人の家族に贈りました。


こんな文章を書き終えて、
ああそうだったなと思って。

いろんな人の顔が浮かんで。

そうか、今自分はここにいるんだと。


2008年12月の都城は、
いつか沈んでしまうのではと感じた場所でした。

今回そんな話をすると、
ある方は「大変だった」と、
ある方は「そんなことない、ずっと元気だったよ」と。

2008年はリーマンショックの年ですね。
自分の故郷、群馬県の前橋の街が寂れて沈没しそうだったことに心痛めていた目は、
自然とネガティブなものをキャッチしていたのかもしれません。

それでもボクが乗ったバスが到着したあたり、
バブル期前後の都城がドンと打ち出した「あらたな街」の20年後の姿は、
道に迷い続け、疲れ、ただ立ち尽くすしかない人のようでした。

今回、まさにそのエリアがあらたな力を得て再起している姿に出会うことが出来て、
これは日本の社会の希望だなあ〜と。

2008年に寂れてなんの建物かも想像できなかった、元ショッピングモールは、
立派な図書館として再生され、若者やお年寄りの第三の居場所として活躍していました。

いや、すごい図書館だなあ〜〜
一言では語れない魅力が詰まった場所だけど、ともかく本に手が伸びる場所。
そして居心地が良い場所。

館長さんに伺うと、
この図書館ができてから8年、子どもたちの様子が明らかにポジティブなものに変わったって。

いや、箱を作っただけではそんなことは叶わない。
やっぱ関わる人の在り方がこの図書館なんだろうなと、ここに関わる方と交わす朗らかな会話から実感。


そういや都城市、ここしばらくふるさと納税で得た寄付額日本1位だったんだって。。

2008年、ボクが寂しいと感じてしまった都城だけど、
そこで危機感を持って行動に移した人は確かにあって、今の都城がある。

これは、日本の他のエリアでも頑張ってやれることだろうけど、
「こっちを見て!」と人を振り返らせるアピール力は九州ならでは、
都城ならではなんだろうなと。

東日本の被災エリアの方々や、故郷群馬のあり方など振り返って思ったりもします。

でも、その違いがこそが日本の社会の多様な魅力であると感じるボクは、
それぞれのエリアらしさが発揮される場所創りを地道に取り組んでいるような人を、
たはり地道に応援してゆきたいぜ。

今回は展覧会だけでなく、S.AL.galleryでの大人ワークショップを開催。
さらには昨年知り合った宮崎市在住で図書館司書や絵本専門士を務める佐藤さんの計らいで、
都城を中心に宮崎市や熊本の益城町まで赴き、
子どもワークショップや大人ワークショップ、学校会での講演会や地域のお話会、
イオンモールでのぬり絵似顔絵なんてことまでビッシリと組み込んでもらいました。

おかげさまで、自分の勝手な見た目では得られる宮崎や都城や益城町の魅力を、
子どもたちと接するからこそののリアルさで感じられました。
また、子どもたちを見守る方々との会話から、今の社会で必要とされるこに気づくことも多く、
とても意義のある、絵の具まみれのハードワークの11日間になりました。

うん。これは良い未来を創れそうだ!

しかし、絵の具を何度買い足しては、絞り切られてしまったことか…
しょうがない、みんなまた元気で会おう!

 

175ヶ月め

2025 年 10 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から5,328日
761週と1日
14年7ヶ月
175回目の11日です。

アップした絵は、9月23~26日で初めて滞在した韓国ソウルの仁徳大学での、イラストレーターで長岡造形大学の准教授でもある御法川哲郎さんのワークショップで作成したもの。

日韓国交正常化60周年にあたり仁徳大学が協働しソウル市庁が主催の『SDGs がテーマとした韓日のコンテンツアート交流展覧会』にお声かけいただき作品出品。
日本から招聘された4組の作家のひとりとして、現場でのスピーチを求められての訪韓となりました。


SDGsをテーマとしたポストターを作成する御法川さんのワークショップ。
シンプルで余白のある投げかけに、集まった学生が真摯に答える姿が美しくて、
じゃあ自分は何が出来るのだろうか?と考え、

ともするとデカい話になってしまいがちなSDGsだけど、
自分はここに集まっているみんなに向けたビジュアルを作ってみることに。

じゃあSDGsの17の目標の中から何を選ぶか?
ということで10番「人や国の不平等をなくそう」をチョイス。

ここに集まっているみんなに向けたビジュアル作成だとまずは「韓日」だなと。

スマホでGoogleマップを見てみたら、
あれ?韓国はこれくらいの大きさなんだ〜。と、
あらたねて確認した韓国のサイズが、日本の国土と比べて思ってた以上に小さいことに驚く。

が、自分はここに集まっている学生をリスペクトしてるなあ〜。
人に対するリスペクトは、国土のサイズに比例しないなあ〜。
なんていう中学生くらいの思考を働かせていたら、
「韓国の日本を同じくらいのサイズで描いてみたら面白いだろう」と思いついたのです。

で、まずは構図を意識しながら左手のフリーハンドで二つの国を描いて。

次にその絵を右手でトレースし構図や線を整える。
(教室の窓ガラスが丈夫だったので、窓ガラストレースしたです)

その線が教室内や窓からの風景にマッチするまでその作業を繰り返す。

というのが楽しかったんですよ〜〜〜

この楽しさはどこから来てるんだろ?


今回日本から招聘されたのは、
イラストレーターで日本側学芸員チーフとしての三浦 均さん。
御法川 哲郎、デザイナーでアートディレクターでもある小熊千佳子さんと、
穏やかに熱い方々で、気持ちよく同行させていただいた感じ。

何より、キム・グァンマン仁徳大学総長と、サン・ビョンイル教授のご厚意のもと、
通訳に奔走してくださったチャン・ファソプさん始め多くのサポートを頂いての、
快適なソウルの4日間でした。


そんなソウルは、高度に、そして高密度に都市化されていて圧巻でした。

通訳の方々がボクの韓国の今に対する質問に実にオープンに答えてくれたことで、
『東京のパラレルワールドとしての東アジアの都市』みたいなことじゃなく、
大陸であり半島でもある韓国の首都ソウルというものを、言語化と肌感同時で感じられました。


もちろん心地よさだけでなく、
ソウルとしての、もしくは国としての課題なんてものにも気づきます。

その気づきは、あらためて日本の社会を考えるきっかけになります。


東京羽田から福岡に行くくらいの時間で行けるソウル。

ありゃ〜、こりゃなんで今まで来たことなかったんだろう?と。

4日でインプットされた情報が多すぎて、今はまだうまくまとめられないけれど、
明確に言えることは「思ってたん以上に愛しいなあ〜〜!!」です。

猛烈に働いて、猛烈に学んで、高度なコンテンツ産業を育て、でも子供っぽくなく、
アート対する造詣が深く、ガッツリメシを食ってまた働くソウルの人たち。
格差や孤独、高齢化なんて課題も含めて、これからさらに会話を深めるべき隣人と思います。

滞在4日目、フライトまで時間があったので、
通訳の女性が力説していた「ソウルにはこの川の余白があるから、ソウルの人たちはおかしくならずにいられるんだ」という川、「漢江」を見にゆこうと、御法川さんと江南エリアのホテルから歩き出しました。


広い歩道と街路樹の多さがうれしいです。
車はヒョンデとキアがほとんどで、メルセデスとBMW、たまにレクサス。
全部セダンで、軽自動車は走っていないんだ〜〜〜、、


企業が行政が効果的に設置しているパブリックアートが気持ち良い。


御法川さんが目指した本屋は、とんでもねえ映えスポットでした。


美味いコーヒーにも出会えました。

そしておじさん2人、
具合悪くなるまで歩いて、
ついにソウルの美しい余白と出会う。

ああ、これは人が生かされる景色だなあ〜〜


ボクはこの余白を描かねばならないし、
この川にまた会いにこなければならない。

 

 

 

 

174ヶ月め_まえばしセッション2

2025 年 9 月 10 日 水曜日


今日は2011年3月11日から5,298日
756週6日
14年6ヶ月
174回めの11日です。

あの日から14年半後のボクは、
自分が生まれ育った群馬の前橋で、
前橋市役所の職員で構成された15名ほどのチームと、
「まえばし」についてあれこれ考えています。

前回の7月14日のセッション後、
市の職員が描いた『わたしのまえばし』の絵を一枚のポストカードにして、
市役所2,700名の職員に配布しました。

その裏面では、
より多くの「わたしのまえばし」の情報を集めたい考えを伝えています。

そうして集まったアンケートは110件ほど。

『2,700分の110かあ〜』という思いもありつつ、
それは自分の無名性によるものだから仕方ないと。

そもそも大学やコンサルなどの権威の裏付けの無い自分が、
行政とプロジェクトに関われるだけで有難いことであり、
自分のような者は関わる人と膝突き合わせ地道にやってゆくしかないのです。

なんですが!
このアンケートで伝えられた「わたしのまえばし」の1人ひとりの濃厚さ!
観念的に考えられた「良い街」からは感じられない温かな血の流れ、などなど。
これは大変なものを受け取ってしまったぞ!と。

1人ひとりの言葉を自分の体に落とし込もうとメモしていったら、
こんなんなっちゃいました。

これを市の職員のコアグループと解析。
取材のスケジュールを組んだところです。

以前にも書きましたが、
前橋市は2000年代の社会の教科書に「日本の典型的なシャッター商店街」として紹介されました。

郊外の養蚕地帯で育ったボクにとって、憧れの街だった活気ある前橋。
その喪失感は、東日本の津波被害に遭った土地に立った時と似たもので、
失われた30年の中での経済という大津波は、自分に恐怖に似た感情湧き起こすものでした。

そんな時代を生きてこられた100名ほどの「わたしのまえばし」は、設問の投げ方も影響したはずですが、
(ボクはドライな言葉を選んだけど、コアグループはエモーショナルな言葉をチョイスした)
フィジカルな記憶の残る少し過去の前橋を、焦点を定めずふわっと眺めるような視線で捉えた、
やさしい言葉使いで表現されていました。

そこには、自分が感じている喪失感のようなものは無く、
ただ誠実に生きてこられた人の営みが、前橋のあちらこちらに当たり前のように漂っているイメージ。

うん、そりゃそうだよ、
前橋で生きてこられた方には、自分のようにたまに東京から来て嘆いてる場合じゃ無い日常があり、
街のリアリズムに対しやさしさを鎧に前進するしかなかったはず。

もちろん、こんなアンケートに答えてくれる方はそもそも意識の高い方であるわけで、
人としてのしなやかな強さをより感じられるアンケート結果にはなっているはずです。

そんなこんなを踏まえてコアグループでディスカッション。

メンバーからはやはり
「後ろ向き(過去向)の回答が多く、今後のシティープロモーションにどう反映させたらいいか?」
「ふわっとした視点で、お店や建物を特定するものが少ない」
などの懸念が出たんだけど。

その『やさしくふわっとした視線』を、過去方向から未来方向に変えて見たら、
そこにはとても良い社会の風景が見えてこないだろうか?

過去をやさしく捉えた視線が、未来で捉えたくなる店や建物のデザインはどんなだろう?
そんなディスカッションから生まれる街っていいよね〜

前橋という街が、そんな1人ひとりの視線の先で再生される街であったら、
それは世界のトップランナーになりうるんじゃないだろうか。

などなど。

前橋は眼鏡のJINSを創業された田中仁さんが尽力され、
アートを核とした街(まちなかエリア)の再建が進められています。

そのエネルギーに、自分が市の職員と進めているやさしい視線が交差したり並走したり、
そんなことから生まれる街に、とても興味があります。

さらにその視線はアートもまちなかも超え郊外にも、前橋を抱く赤城山エリアにも、
利根川の流れに沿って広大な関東平野にも向かうものです。

その視線が何を捉えられるのか、何を捉えようとするのか。

その解像度をより高くするために、
自分がやることは、これまで取り組んできたイラストレーションやアートというものの発想を活かし、
可能であれば、自分が接するすべての人がアーティストである社会を目指したいぜ。

それは都会的な価値観を身に纏いスノッブな振る舞いを見せるようなことでは無く、
東北の沿岸部で出会ってきた漁師さんの生きる術を言語化してゆくようなことかも。

そして、美しいものを美しいと語れる社会になればいいな思うのです。

さて、
そうしたことを実現させるために、自分は何かしらの絵を描くことを求められるプロジェクトです。

ではどんな視点で見てどんな絵を描けばいいのか?

その責任を重く感じつつ、楽しく見て、多くを語り合い、考え、表現出来るよう、
ああ、やっぱ必要なのはコミュニケーションの現場作り。
引き続き尽力してまいります。

173ヶ月め_花まんごー

2025 年 8 月 12 日 火曜日


今日は2011年3月11日から5,267日
752週3日
14年5ヶ月後
173回めの11日です。

先日沖縄の友人よりマンゴーが届けられ、
そのお礼をFacebookのメッセンジャーを使って伝えようとし、
「まんごー」とタイプしたところで何かを押してしまい、
「まんごー」という名前のFacebookグループが出来てしまったようで、
多くの方から「招待ありがとうございます」とメッセージを頂き、
そしてきっと、それ以上の方にご迷惑をかけてしまったはずです。

まずはお騒がせしてしまったこと、ここにお詫び申し上げます。

そうした私の過ちに対し、
「招待ありがとうございます」と伝えて下さった方の多くが
「何が始まるんでしょうか?」「いっそ何かやってください」などなどのコメントを下さりました。

タイミングが7月20日投票日の参議院議員選挙の直後だったこともあって、
ボクが「まんごー」という名を使って何か考えているんだと期待されたのかもしれません。

そこで、
『みなさんが見たその辺で咲いている花の写真を、なぜその花を見たのかの簡単な説明と一緒にアップしてください』
『それに対してその花の絵を描いて返信します』
という企画を立ててみました。

ここに掲載されている60点の花の絵はこの企画で描いたものです。
(その後ポストされた写真1点はまだ描けていない、、)

ここで1人ひとりの花物語に触れることは避けます。

ただ、日本で「戦争」が語られる季節に、
今年はさらに「80年」というワードが添えられるタイミングで、
見渡せば1945年8月15日以前に生まれた方、戦争体験を語れる方がわずかになっている今、
ボクは花物語を伝えて下さった1人ひとり、その尊さを強く感じ、
こうした1人ひとりの物語が不当に失われてしまわぬためにはどうするべきか?
日々繰り返して考えています。

2011年3月11日から14年半。
自分が生まれたのは1945年8月15日からわずか17年3ヶ月後。
2025年8月から17年3ヶ月前のこと、
昨日のことのように思い出すことの出来るボクです。
(さらに…)

172ヶ月め

2025 年 7 月 11 日 金曜日


今日は2021年3月11日から5,236日
748週
14年4ヶ月
172回目の11日です。

参議院議員選挙投票日が近づき、
あらゆる方向からなんやかやの言葉が飛び交っていますが、
東北各県の候補者の公約を眺めてみると、
「震災復興」のようなワードはあまり語られなくなっているんですね。
ならば石川県は?と調べてみると、
なるほど、今回の参議院議委員選挙の争点は「物価対策」

「生活者の暮らしをいかに守るのか?」という問いに対し、
それを争点とすることで「票」が集まるという思惑の元、
各党各候補施策案を公約にしているのが2025年7月の日本の風景なんでしょう。

そんな今の「雰囲気」に呑まれることなく、しかし引いた位置では見守り、
自分は引き続き能登や東北や、群馬だったり地元のシブヤだったりに思いを寄せ、
政治では出来ない手法で、社会の幸せみたいなものにコミットした活動を重ねようと思います。


昨日は渋谷区地元小学校の5年生ひとクラスと1時間、そして6年生全生徒と1時間、
それぞれ自主性を持った探求学習のマインドにに火を着けるセッションに呼ばれました。

これは渋谷区が先進的に進める探求的学びのカリキュラム「シブヤ未来科」の時間を利用したもの。

5年生は、初夏から初めているバケツを使った米の栽培、から、収穫した米をどうするのか?
経営、商品開発、広報、出版などの視点から考えるというもの。

6年生は、地域の課題にコミットした学びを導き出すための、ごく初期段階のセッション。

旧来の『与えられた課題をひたすら覚え、応用力を高める』という学びでは、
社会に益をもたらすイノベーションは生まれないだろう。そんな危機感から、
『自分で課題を見つけ、自分で考え、自分で解決する道を探る』
そんな人材が育ってくれたらいいなという願いの元に考えられた教育プログラムです。

課題に対して当事者意識を持つことで、自主的な学びの意識が高まる。
そこに旧来の記憶&繰り返し&応用学習も必要に応じて組み込むことで、
バランスのとれた”ぶっ飛んだパーソナリティ”が育つことは、ポジティブなことです。

ボクは、震災以降被災地と呼ばれる場所のデカすぎる課題を前に、
絶えず考続けている人たちに出会いました。

当事者意識を持って絶えず考え、しかし被災された仲間同士の考えを否定することなく、
聞く耳を持ってさらに考えることで、いつかその場所に新鮮な発想を纏った何かが生まれる。

そんなことをたくさん見てきたので、
今を生きている子どもたちにも、ぜひそうあってもらいたいと思うのです。

もちろん、大震災や原発事故のようなものは起こってもらっては困るわけで、
そうした経験が必要というわけでな無いです。

未曾有と言われるような事態に直面しなくても、
たとえば、身の回りの他愛もないと思えることでも、ある人にとっては重大事だったりするので、
やはり日常で聞く耳を持った”ひとり”であることが重要だなあと。

聞く耳を持てるためには、まずは自信が表現することを恐れぬ”ひとり”であるべきです。
(そもそもなんでこんなにも表現を恐れなきゃならないのだ?日本の社会。)

子どもたちとのセッションも、ひとつのテーマに対し、思い浮かぶことなんでもいいからアウトプットしてみる、
ブレインストーミングを内包した簡単なアートセッションを行うところから始めます。

ボクが答えを先回りすることなく、ごく簡単な表現を利用し子どもたちのアウトプットを促すと、
出る、出る。

良きも悪しきも混在した子どもたちの言葉や発想は、
すべて愛しくて楽しくて、アウトプットし尽くした子どもたちの顔はみな湯上がりのように良い顔している。

良い顔出来てることは、心のゆとりをもたらし、
「じゃあ他の人はどんなこと語ったんだろう?」
なんて興味心に火をつけます。

そうして出会う「自分と同じ」だとか、「思いもよらぬ」だとか、
他者への興味が、実は自主性の発火点になることは、
ボクが呼吸をしてきたすべての現場で起こったことです。

今回の5年生も6年生も、大人の求める回答、もしくは「子どもらしい自主性」なんてものに答えようとして、
結果、エクセルやワード、キャンバといった道具を使うことが目的の学びに陥る可能性を感じてしまいました。

が!

そんな容易く「自主性」は芽生えなですよね。
そもそもオトナで自主的な探求が出来てる人って、ほとんど見たことないのにね、、
子どもには安易に求めちゃっていないだろうか?

目的は「自主的な探求的な学びを引き寄せる力を持った人の育成」で良いのだけど、
子どもたちの発想を一度更地に戻してやったり、
1人ひとりまったく別の「自主性の着火口」を一緒に見つける作業こそ、
オトナがコミットする部分じゃないだろうか。

というわけで、この学校で過去にトライしてきた通り、
見晴らしの良い発想の荒野に立つためのブレインストーミング。
そこで大量に吐き出した大量のワードをタイプし、
chatジピティ子ちゃんに食わせてパワーワードを生成。

さあ子どもたち!
AIが考えた凡庸な言葉をなぎ倒し
2025年のこの仲間だからこそ吐けるワードを導き出してくれ!!

アップした絵は、
1人ひとりが思う米の魅力を気持ち良い一本の線で表現したもの。
と、一部自分とのコラボ。 

ネットに転がっている素材を使ってアプリで小綺麗にデザインするより、
おめーら1人ひとりの破壊力は素晴らしいのだ!!

 

171ヶ月め_前橋のこと

2025 年 6 月 11 日 水曜日


今日は2011年3月11日から5,206日
743週5日
14年3ヶ月
171回目の11日です。

アップした絵は、
現在群馬の前橋のフリッツアートセンターで開催中の展覧会「まえばしスケッチ」に追加展示した絵。

展覧会が始まって1週間後の5月17日、フリッツアートセンターでbaobabのコンサート
「かぜつちうた」を開催しました。

過去に何度かやってきたように音響を自分が担当し、
baobabが積み重ねてきたたことを大切に、お互い尊重し合いアイデアを出し合い、
この場所にアジャストさせたことで、フリッツという場所ならではのコンサートを目指します。

本番前には土砂降りだったの雨も上がり、リハーサルで高まった心の熱をちょっと冷ましておこうと、
マジックアワーの光に包まれた敷島を歩いてみました。

ああ、綺麗だなあ〜

池に浮かぶ白鳥ボートの可愛らしさ。
水道タンクとヒマラヤ杉が生む光と影の構図。
松林に斜めに差し込む光の帯の鮮烈さ。

人と志を共にし、ひとつの現場を創る作業は、
ボクに「美しいものをただ美しい」と思わせてくれる目を与えてくれるようです。

積もった松葉を踏んで歩く時の体が浮くような優しい感覚。
自分は今前橋を描いた展覧会を開催しているが、
その目の前に広がる風景を何一つとして描けていないと思う刹那。

直後に始まったbaobabのコンサートは、
やはりこの日この場所でしか生まれ得ぬ作品へと昇華しました。

あとは東京に戻り見たものを描くだけです。

baobabとは2008年に東京の渋谷で出会いました。

彼らの暮らしのある大分から車で移動しながらコンサートを続け、
最後に渋谷で開催していたボクのイベントに出てくれた。

その音楽に「若い兄妹が生きてきた時間だけがきっちり鳴っている」と直感し、
1ヶ月後に彼らの暮らす大分県、現在の杵築市山香という町まで足を運び、
森の中の古民家で半農の生活と、楽器作りや音楽活動を両立させる彼らの生き方に出会いました。

今振り返ると、その後に起きた東日本大震災に対しわずかでも正気を保ち向かってゆけたのは、
そんな彼らの暮らしに出会っていたことで、人間に対する希望を窒息させずにいられたからなんだと思います。

あの日から14年めの初夏、baobabと前橋でひとつの作品を創るような作業を出来て、
何かひとつ前進させることが出来たのではと思っています。


「まえばしスケッチ」という展覧会は5月10日から始まり6月29日が最終日で、
ちょうど1ヶ月が経ったところです。

baobabのコンサート以外でも在廊を繰り返し、来場される方と言葉を交わすことで、
自分のやっていることの意味がわかってきます。(自分はコンセプトを立てる前に体が動いてしまう)

より明快になったことは、
自分は前橋という街を喪失した心の痛みに対し、セルフケアのような作品制作をしている。
ということです。

子どもの頃に憧れたキラキラした街前橋は、バブル経済が弾けた頃から急速に寂れてゆく。
日本一の車社会と言われる群馬にあって前橋の市街地は、求心力を持つ観光スポットを持たず、
またその周辺に郊外型の大規模商業施設が出来たことや、人々の画一的な消費行動が進んだことで、
2000年代初頭には学校の教科書に「典型的なシャッター商店街」として掲載されるほどに凋落してしまう。

こうしたことは日本の各地で同時進行的に起きたことだけど、
それでも前橋の風景は、東京に出て「よそ者」となった自分でも心に傷のつくほどの凋落です。

これはボクの勝手な印象でしかないのですが、
『前橋という街は経済の津波にさらされ大切なものを流されてしまった』と。
実際、東日本で津波被害に遭った場所に立って「前橋みたいだ」と思ってしまったこともあります。

それでも「いつかボクの前橋を描かねば」と考え続けてきて、今回。

数年前より前橋をアートの力で更新させてゆこうという動きが生まれ、
多くの人が前橋に力を注ぐようになりました。
薄汚れて見えてた場所にやわらかな光が当たって見えるようにもなっています。

方や前橋の郊外である敷島では、
フリッツアートセンターという場所がオーナーの小見さんの美意識を保つ形で40年、
「敷島らしい」空気を模索しながらも醸成を続けています。

自分はそのふたつのエリア、前橋駅から街中を抜け広瀬川沿いに敷島までの5kmを歩いて、
目に止まるものを描くことで展覧会を作ってみようと考えました。

その5kmの途中に「平和町」と名付けられた街があります。
それは日本各地で、特に空襲による被害を受けた場所に対し与えられている町名です。

前橋では、現在の中心地の周辺部、街の賑わいの途切れたのどかな住宅街エリアが「平和町」です。

子どもの頃父から何度か前橋空襲の話は聞いていましたが、
こんなのんびりした場所まで爆弾を落とされたのか?という疑問から、
空襲被害に遭ったエリアを調べてみました。

ちょっと古い資料なので、
Googleマップに消失エリアを被せてみると、

なんと!
自分がボケ〜っと歩いている場所の半分は火の海だったのか、、

1945年8月5日の夜から6日の朝にかけて、
535名の命が失われ、6万人以上の人が焼き出された。
(その数時間後には広島で原爆が投下され、9日後には無条件降伏が国民に知らされる…)

自分が子どもの頃に憧れたあのキラキラした前橋は、
完全な焦土の上に再建された街だったんだと、あらためて…

わかっていたつもりだったけど、
自分は今回あらためてこの街を歩き、この街を自分の身体に刻み込むことで、
この街に暮らす人の視線に寄り添い、この街の何か美しきものを見つけようとしているんだろう。
それは自分の喪失感を癒す作業でもあるわけです。


人は焼け野原にボクが憧れたキラキラした街を造り、
焼け出されてしまったあるエリアを「平和町」と名付けた。

そんな街も経済の大津波に晒され、
ボク個人の感覚では喪失してしまった。

それでも視線をちょっと振ると、
どなたかの家の塀の脇に刈られずに残された小さな花と目があったりする。

そんなふうにして描いてきた絵を間に置いて、展覧会に来られた方と言葉を交わすと、
色々と気がつくことがあります。

まず、人が穏やかで優しいなあ〜ということ。
これは東京に出る前までに感じていたガラッパチさと随分印象が違います。
それはどうしたことか、さらに会話を重ねてみて、自分なりに考察してみました。

前橋は全国亭に有名で求心力のある観光スポットを持たない街、それも県庁所在地です。

過去には養蚕業から製糸業の核として、日本の経済を牽引する街でしたが、
昭和に入るあたりで失速し、戦争で街ごと焼かれてしまいます。

そんな歴史を振り返ってみると、
今回のスケッチは空襲に耐えて遺ったものを自然と街の象徴として描いてることに気づきます。

ともかく前橋は「何も無い」状態から、
ボクのような子どもが憧れるキラキラの街を再建させた。

そうした街を造るには、とてつもないパワーが必要とされるんだけど、
でも自分が憧れたキラキラ前橋はパワフルなだけでなく、優しかったように思い出されるんよね。

その優しさとは?
ともかく街を歩き続け、疲れた身体が気がついてくれたのは「余白」

過去の前橋には「誰でも居て良いと思わせる余白」あ、物理的にも心の領域にもあった。

メインの商店街を歩くと誰かと肩が触れちゃうくらいの人出でも、余白があった。

「誰でも」なので、ある意味清濁呑み込む街の懐の深さがあり、それは場合によっては危険も含むのだが、、

あれはもしかしたら、戦争で焼かれた街の人の心に宿り続けた刹那なる思いが、
他者に対しても「居ても良い場所」を与えていたのではなかっただろうか?

また、戦争による喪失は、街に暮らす人たちに文化に対する強い憧憬を生んだはず。
言葉に出来ぬ理不尽な出来事に無力を叩きつけられた人は、文学や芸術からその回答を得ようとします。

それはとてもパーソナルで静かな行いであり、そうしたものが徐々に束になってひとつの運動のように育っても、
大声で何か訴えるようなことでは無く、やはり静かに粘り強く続けられるようなものです。

ただ、ボクはそこから漂うほのかな香りのようなものに気がつき、
そこはかとない文化的に香りこそ前橋の魅力であると、幼いながらに気がついていたはずです。

父に連れて行かれたクラシックのコンサートや、母に連れられていった演劇などなど、
今振り返ればなんて凄い表現者たちを前橋は呼んでいたんだと思う。

 

そうしたものを高度経済成長期の最後の方にキャッチし、良きものと捉えるも、
世の中のほとんどの人が「中流」を意識し始めた80年代、
バブル前夜の前橋がどんどんと漂白され、表向きオシャレな装いを見せ始めたのには違和感を感じ、
ふと気づくと自分の居て良い場所が見えづらくなっていなかっただろうか。

古く使い勝手が悪いから「しょうがない」取り壊された前橋駅の駅舎のことを、
自分は事あるごとに個人的喪失として思い出したりしています。

もちろん「誰も」が住みやすい街づくりに、自分の憐憫の情など関係無いのだと思うのだけどね。
でもそも「誰も」がなんだか生きづらさを感じているのはなんでだろう?

そうして前述するように個人的な喪失を感じるほど衰退してしまった前橋の街ですが、
ここ数年で新たな魅力的な顔を見せるようになっています。

そこには、たとえば成功を収めたJINSの田中仁さんのような民間の力が投下したお金や発想、
そこに集う人の力、そこから育つ人の力、そして行政との噛み合わせの妙があります。

では、それはなぜ実現出来たのか考えてみると、
極論だけど前橋にお城が無かったことではないかななんて思うんよ。

立派なお城がある街の人は、その力を活かそうとする街づくりをするんだけど、
前橋には城が無い。

力強くアイデンテティとして語れる産業も、そもそも街そのものを空襲やバブルで失っている。

遺されたものは「危機意識」だけってくらいなんだけど、
しかし、お城のようなもの、極論すれば富士山のような象徴が無い分、
前橋の人は危機意識をエネルギーに、あとは何物にも囚われぬ軽やかな発想とマインドで、
新しい街作りに取り組めたんじゃないかな。

新しい街の姿がちょっとでも見えてきたら、
もともとの人の優しさが「あなたの居て良い場所」を可視化させる力を発揮させてくれる。

あれ?
もしかして前橋は「軽い」という言葉を今の日本に必要なポジティブなものに更新させ、
なんなら社会の価値観も良い方に変えてしまう力を持っているんじゃないか?
なんて思い始めています。


求心力のある観光スポットは持たぬが、街が余白だけになりかけてしまったが、
人の気持ちに覆い被さる余計なことは、街を流れる利根川や広瀬川の豊かな水が、
そして上州名物赤城降ろしの空っ風がどこかに流してすっ飛ばしてくれる軽やかな街。

それが魅力だと思うと、
前橋には希望しか感じられないぜ!と思うのはボクだけだろうか。

ところでこの感じ、
ボクは福島県の福島市の街中で起きていることと似ているかも。

震災と原発事故を経験した福島。
それはある意味「何も無い」というくらいの場所まで人のマインドを落とし込むも、
その危機感があるからこそ、人は考え続け、人と人のつながり大切に育て、
人と人の間に生まれる発想を生かして、今。
「誰でも居て良い場所」があちこちに感じられる優しい街に変わってるイメージ。

これからの前橋が、東京を頂点とする中央の価値観に追従するとは考えられず、
しかし、福島の街の人たちと繋がることには、価値を感じるなあ〜。
もしくは、大分の山間の町baobabの暮らす山香とかね。

そんなことを思えるのは、日本の社会が画一的に漂白されてゆく時代に争い、
人の弱さを慈しみ美しく生きることを良しとし、ツッパらかって本屋なども営み40年、
前橋の優しい文化の生命維持装置のような敷島のフリッツアートセンターという場所が、
前橋の過去と今をパラレルに見せてくれるからなんだろう。

フリッツアートセンターでの展覧会「まえばしスケッチ」はあと2週間ちょっと、
6月29日が最終日です。

『まえばしスケッチ』小池アミイゴ イラストレーション展
フリッツ・アートセンター / ギャラリー
 2025年5月10日(土) – 6月29日(月・祝)
11:00-18:00
入館料 _無料
休館日 ‖ 火曜日(祭日の時ははその翌日)

〒371-0036  前橋市敷島町240-28
Tel. 027-235-8989
web. theplace1985.com
mail. info@theplace1985.com

ボクの在廊予定は
6月15日(日)、16日(月)
6月27日(金)、28日(土)、29日(日)

最終日イヴの28日には、エリリャオとファルコンをお呼びして、
架空の絵本の世界を唄で表現する試みを行います。

ライブ + ワークショップ
エリ・リャオ + ファルコン c/w 小池アミイゴ
6月28日(土) 18:30 開演(開場 18:00)
フリッツ・アートセンター


15日午後と29日午後にはそれぞれお話会が行われ、
15日はガザと渋谷の子どもたちを絵で繋いで作った絵本「みんなで見た こどものえ」で、
ボクが子どもたちに行ったセッションを再現して体験してもらえます。

などなど、
もはや終わってしまうことの喪失感が込み上げてくる展覧会に育っています。

 

 

170ヶ月め

2025 年 5 月 11 日 日曜日


今日は2011年3月11日から5,175日
739週と2日
14年と2ヶ月
170回目の11日です。

今日5月10日から、群馬の前橋の敷島にあるフリッツ・アートセンターでの個展「まえばしスケッチ」が始まりました。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=16456

初日は敷島薔薇園と敷島本の森のお客様が重なり、地方での展覧会にこんなにも人が来てくれるんだ〜!という驚きの1日。
テーマが地元前橋を描いた作品群なので、老若男女多くの方が絵の前で立ち止まり語り合い、さらにはボクに前橋愛を伝えてくれました。

夕方には地元新聞の取材が入ったのですが、
記者とボクとで話が弾み、自分がやっていることはどんなことなのか?を探る会話が4時間。。

それだけ語り合えるだけ、今の前橋は新しく生まれ変わろうとしている。
しかしその前は個人的に「喪失」を感じるほどに寂れてしまっていました。

インタビューの中で、自分が東日本大震災発災直後に東北に弾き飛ばされるようにして向かった理由の中には、前橋という美しき憧憬の街の喪失と東北の太平洋沿岸部の喪失とで何が同じで何が違うのか?そんな探究心もあったのだろうと気がつきました。

震災後の東北を歩いて育った目で、今あらためて見る前橋の街。

そこから生まれた絵に向き合って下さったみなさん1人ひとりが、それぞれの前橋を語ってくれた。

こんなアウトプットがあって、はじめて「より好ましい街」についてのアイデアが生まれるんじゃないかなと。
今回シャカリキになって前橋を描いた意味にあらためて気がついた展覧会初日でした。

「まえばしスケッチ」は6月29日まで。
この期間で前橋に対し貢献出来るとこと探り実践できるよう、
この展覧会をさらなるコミュニケーション場へと育ててゆこうと考えています。

という自分の思惑や理屈は関係なく、
みなさんがこの展覧会を楽しんで頂けることを願っております。

4月17日は能登でのフィールドワーク。

2年前の夏に「なんて見事な田んぼだ!」と感激し、田んぼ仕事してたおじさんにその理由を尋ねた場所は、川になってしまってた。

昨年元旦の地震で土地の隆起と陥没が重なり、川の流れが変わってしまい、田んぼだったところに川が入ってしまったとのこと。

2年前のことはこちらに綴ってあります。
しかし、おじさんが大切に育てた田んぼの土が流された今、田んぼの復活は可能なのだろうか?

この日はこの近所に暮らしている別のおじさんと立ち話。

震災後、一旦はここを離れたが、やっぱり生まれ育ったここがいいから帰ってきた。

「ここはね、きれいなところなんだよ」
「ここ歩いて花を見て、今は飛行機雲が見えてるけど『あれは晴れてるから見えてるんだ』と思うのがね、いいんだよ」
「気持ちが沈んだ時は、ここから海岸線グルっと回ってくると、気持ちが晴れてな」
なんて語ってくれるもんだから、ついハグしちまったぜ。
「でも自然というオバケがきちゃったんだ」
「こんなことは考えたこともなかった」と。
そうか、、
「また元気で会いましょう!」と声かけあって別れました。
その後チャリティ企画のお手伝いをした輪島塗の田谷木地店のたくじさんと合流し、
能登を巡りながら輪島塗の今を伺いました。

農業も輪島塗も自然との共生と人の絆で育まれ保たれてきたこと。
しかし今まさに危機に瀕していることの確認。
それでも希望を感じさせる人の存在があること。
引き続き応援は続けるのは当然として、
じゃあ自分は何を描けば良いのか?
想像力のケツを蹴り上げつつ、 大切なのは理解じゃなくて、まずは認知。
まずは人として当たり前の目を持つこと。
では当たり前とは?
ともかく続けます!