‘3月11日からの備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

141か月め_直島から神山町へ

2022 年 12 月 11 日 日曜日


今日は2011年3月11日から4,293日め。
613週2日
11年9ヶ月
141回めの11日です。

今日は自分の暮らす代々木エリアの落書き消しを、町会、学校の子どもたちや先生、親御さん、街の仲間たちの協力のもと行いました。


その仕上がりは、子供たちと3年間セッションを続けてきた壁画からの流れも美しく、まずは良い仕事できたかなと。ご協力のみなさん、お疲れ様。ありがとー!

ところで、
許可無しで犯される落書きに対して、落書きを消すには行政機関3~4ヶ所からの許可を得る必要があります。

「それって変だよな」と思いつつ、ならば「自分から動いて落書き消しをしてみよう!」なんてね。目的は街の美化以上に、落書きを消す事で人々が語らうチャンスを創り、なんだか矛盾を感じる社会システムを街のみなさんと共有し、改善に向けたアクションにつなげる。なんていう裏テーマが大きいのです。

昨日は、地域の落書き消しや壁画制作に興味を持ち始めている小学生たちから、ボクの取り組みに興味を持ち、レクチャーしてくれとの要望が上がっているという連絡をもらいました。それに対して「うん、やるぜ!」と答えると共に、矛盾を感じてしまう世の中のシステムを良いものへと更新させてゆくことも、一緒になって考えられたらいいなと思っています。

さらに、『アートや芸術はなにかやら素敵そうだから』という漠然とした思いのまま、壁画を地域に投下するでは無く、社会の課題を解決するための手段としてアートや芸術、デザインやイラストレーションというものを使う。そんな発想を子供たちと共有してゆきたいです。

そんな発想の裏付けになる旅を先日行いました。

まずは香川県の直島。

今は瀬戸内芸術祭の中心地として多くの人を集めるアートの島として有名になっていますが、元々は100年続く製錬場の島として栄えた場所です。ただ、製錬所の活況は深刻な環境破壊をエリアに与え、島の大部分がハゲ山になってしまうという事態が起きました。


そうしたことに対し、戦後以降は植林などの取り組みが重ねられます。

そして今から30年ほど前、1990年前後からベネッセがここをアートの島として育ててゆこうという取り組みを始めます。

2010年には「瀬戸内芸術祭」が始まり、3年に一度の開際の際は、国内外から多くの人を集める拠点となり、今は「直島っていいよね〜」「直島に住んでみたい」なんて言葉が当たり前のように聞かれるまでになっています。


今回「子どものためのアートスクールのようなものが出来ないか」という問いに答え、初めて行った直島。

岡山からの船で20分ほどで着いた現在人口3,000名ほどの直島町は、足を踏み入れた瞬間に「あ、いい空気が流れているな」と直感出来る場所でした。

30年をかけて重ねてきたアートの取り組みの中で、10年前に元々暮らしていた住民を置き去りにする事なくアートが日常に変わり、それを目指す人によってさらなる価値が与えられて今があるんだろうなと。

ごく短い滞在でしたが、出会った人とたくさん語り、この場所だからこそ整理出来た自分の表現、もしくは自分というもの。ではここで実際に何が出来るのかは、この島が30年かけてやって来たことをリスペクトし、焦らず確かなものにしてゆけたらいいなと思いました。

直島から香川へ。

高松の町が意外やデカくてキラキラしていることに驚き、今は「東京に暮らす」というより「代々木ローカルで暮らす」というアイデンティの強い自分は、地方で生きるってこと考えるスイッチが入ったように思います。。

高松が物語の重要な舞台となる、村上春樹の「海辺のカフカ」を読みながらの旅だったことも、風景の見え方を変えてくれてたかもだけどね。

次の日には徳島市に移動。

高松よりずっとのんびりしたイメージの街からバスで1時間。
山間の町、神山町を目指します。

車窓から見える風景はのどかであると共に、「末長く」重ねられて来た人の暮らしの確かさがあります。
そしてバスが神山町に入ると空気が一気に変わったように感じました。それは「人の愛のある手で整えられた場所」特有の凛とした空気です。


3年前に神山に移住した友人の編集者と、10年ほど前に移住し、今は珈琲の焙煎を行なっている友人と合流。
神山の良いところを紹介してもらいました。

たとえば設立5年めの食堂「かま屋」
フードハブプロジェクトというひとつの会社が、新規就農者を育成しながら本格的な農業を営み、そのアウトプットの場所としての食堂。うちの近所のパン屋”ルヴァン”が監修に入ったパン屋や地域の加工品の製造販売所を併設し、町の人たちの農と食に関わる場にしてゆくという考えが、美しく、なにより美味しく結実していました。

1食1,850円のランチを求め、町の外からも多くのお客様が集まっています。
ボクも実際にいただいてみると、有機や無農薬で育てられた地元産の食材に、適切な調理が施されたごはんは実に美味しく、「対価」としての1,850円を気持ちよく預けた「The 食い物」でした。

また、卓上には季節ごとの「地山地食」の達成度が書かれたファイルが置かれているのですが、そのグラフィカルな見せ方がとても上手で、「体にやさしい」現場で有り勝ちな「理屈」を食わされている感じがまったくしないのが素晴らしい!

で、次の日、今度はひとりでランチをとってみたら、周りの人たち(多くはボクより若い人たち)がそれぞれ数名にグループで食事を楽しんでいるのだけど、聞こえてくる会話が「町作りについての真剣にデスカッション」であることにビックリ。いいな〜、神山!

町内には東京や大阪のITベンチャーを中心としたサテライトオフィスがいくつも、古民家などをリノベーションして置かれていて、町全体が新たな働き方の実験場のようになっています。

これは、20年ほど前に町内全域に光ファイバーを張り巡らせた施策が実った風景と言えるようです。
そうして若い人たちがこの町に入ってくるようになると、その生活を充実させる仕事の可能性が生まれ、10年前に移住してきた家族のお母さんは「珈琲の焙煎をやってみよう」という発想が、この町だからこそ湧いてきたんだと思います。

もしくは、この街で靴職人として生きてゆこうと考える人とか。

30年ほど前、町から海外に出て戻って来られた方が、過疎化するエリアを生かすため、アメリカのシリコンバレーに習って”グリーンバレー”という組織を立ち上げ、まずは町の元々の産業、林業や農業に負荷をかけぬアートを手段と考え、アーティスト・イン・レジデンスの取り組みを行う。ある日「海外から来たアーティストが町内を歩く姿」に町民は出くわすわけです。で、それは「奇異なもの」として捉えられちゃうのだけど、しかし、丁寧に続けることで「外人が街を歩く姿」は地域の当たり前となり、なんならちょっとした英会話が日常になってゆく。その先、10年後辺りで街に光ファイバーを張り巡らせ、外からの人を本格的に受け入れることを始めと、地域住民にとって奇異だと思えた風景の広がりは、地域の可能性の広がりを想像させるものとなる。そうなると、廃校も危ぶまれた既存の高校が、地域作りと食に特化する2学科で復活を図り、今は地域の枠を超えて学生を集めるようになる。そうして集まった学生も町作りに参画する。来年には新たに高専が設立される!?などなど。
おもしろいな〜、神山。

この日の宿は”WEEK

目の前の鮎食川を借景を空間装置として生かす大きなガラス戸と清潔でミニマムな空間で、日常と違った働き方が出来る宿。

この施設の目の前には、グリーン・バレーが運営するコワーキングスペース”神山バレー・サテライトオフィス・コンプレックス”が置かれていて、

ボクは滞在中に2回のオンラインミーティングを行うことが出来ました。

そして、サッカーワールドカップ・カタール大会の日本代表とドイツとの歴史的一戦もこの宿の部屋で!

神山町、印象よすぎです!!

その他新鮮な出会いがいくつもあったのだけど、神山の最新情報だけ浴びすぎるのも違うだろうと、ただただ街を歩いてみたら、やはりその美しさばかりが心に染みてくる。

それはやはり、豊かな自然との共生を先鋭的に重ねているからこその景観なんだろうな。


この町のことを簡単にわかったふりはしたくないなと、さらに歩き続けると山の中。



雨乞いの滝まで汗だくになって着いたら、早く東京の代々木の家に戻り自分の暮らす街をもっと良いものに出来るよう、町の仲間と話をしたくなりました。

直島も神山町も、30年続けてきたことが日本の社会が今まで気が付かないで来た豊さを手にしている。

そう出来るためにも20年の積み重ねはマストで必要だよな。

自分が今の街で暮らすようになって24年。
震災後東北を巡り始めて11年半。
ちょっと歳をとってしまった自分に出来ることは限られてきてはいるが、それでもやるべきことはあるよね。

その前に、豆ちよさんの働く姿を目に焼き付け、こんな姿を自分の新たな発想のスタートラインにしておきたいと思いました。

そして今日、ボクは自分の暮らす街にされた落書きを、街の仲間と一緒に消すセッションを行なった。

神山さん。また元気で会いましょう!
PEACE!!

140か月め_塩釜での壁画制作

2022 年 11 月 11 日 金曜日

今日は2011年3月11日から4,263日
609週
11年8ヶ月
140回めの11日です。

10月31日から11月4日まで、
宮城県塩竈市の塩釜水産物仲卸市場の北側の扉への壁画制作を行いました。


震災の津波被害の遭った場所で、長年稼働してきた仲卸市場ですが、
老朽化と世代交代のタイミングで、若手と呼ばれる人たちがこの場所の更新を担うことに。
これまで4つに別れていた運営をグループを1つにまとめ、
課題解決に向けたコミュニケーションのよりオープン化させ、
新たな試みも加えて、10月15日にリニューアルオープンさせた場所。

ボクが懇意にさせてもらっている塩釜のアートシーンの中心人物 高田彩さんが、
この春ここの南口に作家さんと地元の若者たちを結びつけた壁画制作をしていることを知り、
とても良い試みだな〜などと思っていたところ、
次年度予算で北側の入り口にボクを呼び込んでくれました。


その際にオーダーがあったのが、
ボクが過去に同じ構図で2度描いた塩釜の海、「千賀の浦」を飛ぶ鳥たちの絵、
それをこの場所に施してもらいたいとのこと。

ああ、うれしいな〜。

この絵は、ボクが2013年の5月に塩釜で見た風景です。

この年の1月、ボクは震災後の何度めかのフィールドワークで東北を巡り、
旅先で見た「マリンゲートという港の機能が一部再開」のニュースから塩釜に行ってみようと思いました。

そこにはプレハブ建ての復興市場があって、
ボクは共栄丸水産で働く水間さわ子さんと出会います。

とても溌剌としていて気持ちよくて、自分では嫌だなと思っていた
「逆に被災者に元気もらっちゃいました」みたいなことが起きてしまったのです。

そこでラブラブだというご主人を紹介され、
ボクは手持ちのシロツメクサを描いたポストカードを手渡し、
東京にもどりました。

しばらくするとさわ子さんから手紙が届きます。

そこには、保育士となった二十歳の時、不安な気持ちで通学バスに乗る際、足元に咲いたシロツメクサを見て、なんだか励まされたような気持ちになったこと。
震災の直後、何もかも流されてしまった養殖場ある海に出て呆然と空を見上げていると、呑気に飛んでるカモメ(ウミネコか?)の姿が見えて、やはりなんだか大丈夫と思えたこと。
そして、ご自身の今のことと相変わらずラブラブなご主人自慢。そんな自慢のご主人が働く海と5月に塩竈神社に咲く塩竈桜を見に来て、いつか絵にしてくれと。

ボクは彼女と会えたことで、被災ということ、復興の意味、もしくは、被災地と呼ばれる場所にひとりでも友人が出来たら、それはとても豊かなことなんじゃないかという直感を得ました。

で5月、東京から弾き飛ばされるようにして向かった塩釜。

復興市場でさわ子さんを見つけ「ご主人の仕事場を見てくるね〜!」と声かかけて、遊覧船に乗って松島湾へ。
古くは「千賀の浦」と呼ばれた場所で、ボクはかっぱえびせんに群がるウミネコを見ます。

被災と日常が千賀の浦の上で交わって感じられた瞬間。
ボクはこれを描き続ければいいのだろうと確信しました。

彼女はその絵をとても喜んでくれて、
この絵を使ってご家族で営む共栄丸だけでなく、塩竈の復興に役立てたいと考えを持ってくれました。

いくつか具体的なアイデアもあったのですが、
2018年の夏、彼女は急逝してしまいます。

家族のため、地域のためと、ものすごい笑顔と共に頑張っていたんだよね。


今回の壁画制作にあたり、
高田綾さんに共栄丸さんにご挨拶に行きたい旨を伝えたら、
一緒にゆきましょうと。

美人すぎる元気すぎる共栄丸シスターズの洗礼を受けていましたね。

コロナでしばらく来れなかった塩釜で、ボクもお互いの元気を確かめ合い、
さわ子さんが愛してくれた絵を、いわばライバルと言えるような場所に投下する旨を伝えたら、
逆に喜んでくれて快諾をいただきました。

ああ、こういうマインドなんだよね〜、今日本中で必要とされていることは。
(オリンピックの金の流れとか見ちゃうと、特に、、)

で、シスターズ、
「お父さんがアミイゴさんの影響で絵を描き始めちゃって、」なんて言って見せてくれた絵。


きゃーー!
素晴らしい。

お父さん、俺にはこんなん描けないです。

海を愛し海に生きた人だからこそ描けるリアリズム。

近年見た絵の中で一番愛しいかも。

そして、自分がやってきたことでこんな絵が生まれたことに感謝。

都会のなにやら立派な場所で輝くものでは無い、

自分のアートとは、こんな絵が生まれることなんだと、
またまた塩釜で教えられてしまったのです。


共栄丸さん、いつまでも元気で!
また塩釜で会いましょう。

仲卸市場での壁画制作は、
主に市場の閉まる13時から日のかげる16時半くらいの3時間半が勝負。


それまでは扉が開いていて、少なからずの方がここを通ります。

そんなお一人お一人が気持ち良い言葉をボクにかけてくれて、
この作業が行われることに関して、市場で働く多くの人のコンセンサスが取られている事を感じます。


ボクがここで制作することで生まれるコミュニケーションも、
こな市場を再生して行く上での重要な要素なんだと思います。


「被災地」と呼ばれる場所で生きる人の多くは、
あの日からずっと考えるのやめなかった人。
(あらゆる事情で考えることを足踏みする人のことへの想像も忘れずに、)

個人的には東京の(中央の)発想のずっと先を走っているイメージさえあります。

そんな方々が大切にされていることのほとんどは、
風通しの良いコミュニケーションの現場作りではないかと。


若いアイデアが結集され生まれた市場内のフードコートの風通しの良さは、
コンサルタントや代理店の発想では生まれ得ない気持ちよさがあります。

現状はリニューアル・ブーストがかかった状態で、多くのお客様が足を運んでいる状況かと思い、
これを維持してゆくのは大変さも想像出来てしまうのだけど、
だからこそ高田 彩さんはこのタイミングでボクを呼び込んでくれたんだよね。きっと。

いやー、この壁の前でほんと色々な人と会話をしたな〜
その1つ1つが愛しくて仕方ねえぜ、塩竈、宮城、三陸、東日本。


大切な友人も駆けつけてくれたし、ここで友人になれた人もいるし、
さわ子さんとのご家族とは「今でもその辺にさわちゃんがいるよね」と。
この壁がある限り、そして少なくとも自分が生きている限り、
これからも続いてゆくものばかりです。


塩釜を良い方に更新しようと奮闘するみなさん。


そこでアートを翼に軽やかに舞う高田 彩さん。

この場所への導きをありがとう。

綾さんが運営するアートの拠点「ビルド・フルーガス」は、
エスペラント語で「ほら、鳥が飛んでいる…」という意味だそうです。

あらためて、
2011年の春に千賀の浦でさわ子さんが見上げた空を想い、
塩釜で出会った人たちに感謝を深めた壁画制作。

この空、東京へ、日本中へ、世界へと広げてゆきたいです。

 

139ヶ月め

2022 年 10 月 11 日 火曜日


今日は2011年3月11日から4,232日
604週4日
11年7ヶ月
139回めの11日です。

今は北海道の知床斜里駅の待合室でPCをタイプしています。

5年ぶり2度目の知床では、前回と変わらず生きると死ぬについてい考え続けています。
そのことについては後ほど、心を落ち着けて言葉にしてみますね。


先日は福島県へ。

今回は震災後に企業された再生可能エネルギーの電力会社と「何かできないか」そんなオーダー。

福島県飯舘村-喜多方市-福島市、飯舘電力、会津電力と電力会社を巡って行くと、
最後は美しい田んぼの風景に出会った取材旅でした。

ほぼ白紙の状態から1年間かけて、福島が必要とするであろう「目指すべき新たな幸せの風景」を掘り起こし、アートやイラストレーションやデザインというものをハードワークさせ人々と共有させる、なんてことが自分に出来るかどうか。


ただ、今回お世話になった皆さんの「福島をなんとか良い場所にしたい」というマインドの熱量すごくて、「これは引き続きハードワークしなきゃならないぞ!」であります。

皆さんの福島県を再エネ先進地に育て、サスティナブルなライフスタイルを実現しようとするマインドの熱を、美味しい料理を作るのに使うのか、煮湯にして誰かにぶっかけるのか、デザインやアートなんでもものの働かせ方はそんなところにあるんだろうと、皆さんとのディスカッションの中から感じました。

今回「デザイン」というワードで2つ。
地元の再生可能エネルギー電力のソーラーパネルが、自然や人の生活と調和させるよう建てられいるのに対し、
(写真は会津電力のもの)
首都圏のマネーで建てられているものはどうしても暴力的に見えてしまうなあ。
震災後のニュースで何度も何度も耳にしてきた飯舘村だけど、
その形は「福島第一原子力発電所から北西に流れる風(雲)の形で覚えていたのだが、
実際はジャガイモのような形だったぜ。


これは、熊本の水俣をモノクロでしか知らなかった関東者の自分が、実際に水俣に行ってみたら、とても美しく場所だったことを知った時と同じく、「ごめんね」という気持ちと共に、知らないことの罪を感じました。

今回のフィールドワークを通してガツッと言えることは、
「福島は東京なんかのずっと未来を生きてる」ということ。

なんつったって皆さん、あれから絶えず考え続けている。

飯舘電力と会津電力は別の会社だけど、協働のような関係にあるんだろうか。
関わる皆さん同士がとてもオープンに語り合っているのが気持ちよかった。

会津電力の母体は北方市の大和川酒造。
酒造りは人と米と水が必要で、それを会津の土地の力で賄っているということで、

サスティナブルな試みの先駆者と言えるのだろうね。

そんな酒と似た味わいの電力なんて観念が生まれた楽しいだろうな〜

酒造りと電気作りがどちらも幸せなものであるよう、
され自分は何が作れるのだろうか?


今回、良いものを見ただけじゃなくて、
震災後に被災地と呼ばれる場所に投下された大きな力で歪んで見えるものも出会いました。

ただ、自分はそうしたものに抗うより、そうしたものを乗り越えちゃう、
なんなら地面に穴掘ってすり抜けるとか、そんな楽しい力が湧き出すようなことをしたいね。


ともかく目の前には「白紙」

自分の仕事のあり方も創造するようなチャレンジを、今までやってきたどんな仕事より楽しくやれたら、
息子たち世代が笑顔で歩ける獣道の一本も描けるのではないかと、自分に期待しています。

138ヶ月め

2022 年 9 月 11 日 日曜日


今日は2011年3月11日から4,202日
600週2日
11年6ヶ月
138回目の11日です。

ん?まだ138か月か、という印象の11年半。

先日は地元の落書き消しを、街の仲間と行いました。

2年前の9月5日にやはり落書き消しをした壁面。

2年後の8月16日に落書きをされたので、

区役所、警察署に必要な申請をして、SNSで呼びかけた街の仲間と消しました。

2年前の経験から、区役所担当者とのコミュニケーションや申請はスムースに出来たはずです。

が、やはり矛盾を感じるのは、
落書きは勝手にされるのに、落書き消しにはいくつもの申請がいること。

この壁で言うと、持ち主は東京都で、環境管理は渋谷区、道路使用は代々木警察署と、
それぞれの許可が必要になります。

東京都の道路管理部には渋谷区の担当部署が申請を代行してくれましたが、
これを個人でやろうとすると、かなり面倒な話になります。

あらためて、今回の落書き消しのモチベーションを語ってみると。

まずここは通学路であること。

コロナでマスクをした2年数ヶ月の子どもたちのマインドを考えると、この場所は綺麗にしておきたい。

夏休み前、ネットで全国的に女児誘拐をほのめかす発信があり、この通学路を利用する小学校でも対策に追われた。

大通りに直結する裏路地であるこの場所は、犯罪が起きやすい場所である。
(犯罪者は逃走出来ることを前提に犯行場所を選ぶ)

夏休み中、ここから近くの渋谷の繁華街の裏道で、中学三年生の女子が母娘を刺す事件が起きたが、彼女は新宿から渋谷まで裏通りを歩きながら、犯行場所を探していたとのこと。街に落書きが溢れる渋谷の繁華街で「ここは人を刺していい場所だ」と判断した中学三年生。落書きがされたこの場所でも同じことが行われてもおかしく無いという考え。

そんなこんなで、出来たら夏休みが明ける8月30日までに落書きを消したかったが、しかしそこには実行に至るプロセスがある。

渋谷区には落書きを消す専門チームと契約した「先進的な落書き消しシステム」があります。

しかし、渋谷区は落書きに溢れ、申請してから実行まで時間がかかる?
ともかく、このエリアの学校周辺の落書きに対して、落書き消し申請から消されるまで時間がかかりすぎる。

その間子供たちが「落書き怖い」とか言ってるんだよね。。

自分は地域の壁画制作に関わっていたりするので、今回の落書きに対しても「壁画にしちゃえば」なんて意見ももらうのだけど、自分の考えは「子供のたちの恐怖を消す」ことに尽き、「落書きを消す」ことや「壁画制作」が目的では無く、ただすぐ消し、できれば以前より良い環境を子供たちと(大人たちとも)共有することを優先して考えています。

そうしたことに、いくつもの申請が必要なことは、これからの社会作りの必然として改善してゆかねばだなということを、ボクは2011年3月11日以降の「被災地」と呼ばれる場所で感じてきました。

行政の行うことを見ていると「新たな社会システムを構築するアイデアを持つ人」にスポットが当たり、またシステム構築の達成が目標のように見えてしまうことがあります。

しかし、本当の目的はそこでは無いのは当然ですよね。

今回の落書き消しで一番苦戦したのは、劣化し汚く見える行政の張った落書き禁止ポスターだったりします。


いやいや、そんなもの貼るまでも無く、勝手に書かれた落書きは、気がついた者が勝手に消しちまえたらいいよなと。

まあ、消すのもテクニックいるのだけど、集まったみんなで「こんなやり方どう?」とか話し合って行う作業が、実はとても楽しかったのです。
参加者のひとりが「慈善活動は苦手だが」なんて語っていたけど、一番楽しそうに活躍してたぜ!

仕上げは「行動としての安全担保」に「目に優しい生活のゆらぎ」も演出した自分の塗りの技術を投下しときましたよ。

というわけで、みなさんお疲れ様でした〜

137ヶ月4日もしくは 77年め

2022 年 8 月 15 日 月曜日


今日は2011年3月11日から4,175日
596週3日
11年5ヶ月4日
137回めの11日から4日経った8月15日。
太平洋戦争が終わった日から77年です。

7月31日に展覧会を開催している長崎県諫早へ。
生活雑貨とカフェを営むオレンジスパイスのみなさんと久々の再会。
開業から28年の底力ある現場は相変わらず素晴らしく、
この場所を維持してこれた力というものをあらためて考えてみました。

次の日は福岡へ。
出会った、絡み始めて16年。
相変わらずぶっ飛んでアート作品を産み続けているアトリエブラヴォへ。
以前からスタッフが更新された中、次世代の福祉の風景を見せてくれてるのが嬉しくて、
予定よりずっと長居して、商品開発のブレインストーミング。
「障害を持っている」と呼ばれる人たちと当たり前に触れ合い、当たり前に16年の時を重ねてこれたこと、これは未来だなあ〜。

その後薬院のカフェsonesへ移動。
現在ケータリングに力を入れている店とは、
0年代の多くで心通う現場作りをしてきた仲間。
そのケータリングカーにペイントの依頼を頂きました。

オーダーされた絵柄から、ボクなりに魂の逸脱。
福岡の街のこの店じゃなきゃ描けないものを提供できたはずです。

夜は、やはり多くの現場を共にしてきた仲間のライブ。
小さくても軽やかに深い表現の現場は福岡ならではだな〜

浜田真理子さんなどという憧れの存在とも出会え、
福岡の底力を感じながらカミさんの実家のある北九州へ。

先に来ていた中一の息子と合流し、
大変なおもてなしを頂き、人のありがたさを感じ…

自分がこうして善き人に恵まれている意味とは?

善きものに恵まれたら、その逆にも視線を向けた方がいいねと。
ほんとギリギリまで悩んでいたけど、息子を連れて広島に行くことにしました。


もともと息子を広島や長崎、沖縄に連れてゆくことだけは自分の責任として行うつもりだったのだけど、
中1になって自我が急激に芽生えたように思えたので、このタイミングだろうと、1ヶ月半前に自分ひとりで来たばかりだけどね、広島平和公園を目指しました。


ボクが震災後の東北を目指した大きな目的のひとつは「息子に自分の言葉で震災を語れる大人でありたい」と思ったから。
そう思った背景には、中越地震でのボランティア参加や、福岡西方沖地震後の活動などと共に、広島や長崎、沖縄で戦争の記憶を探る旅を続けてきた経験があります。

そうした経験で得たことは「ひとりが語る言葉の重大さ」
もしくは「ひとりを失うことの重大さ」

個人的に3度めとなる広島平和記念館は、数年前の改修でより「ひとり」というものにフォーカスされた展示になっているイメージで(以前は「原爆資料館」的なニュアンスも強かった印象)、12歳男子はそこでどんな言葉に出会うのか、受け止めきれぬこともあるだろうけど、まあ俺がついてるぜと、彼の背中を追うように展示室を巡ってゆきました。

もともと文章を読む能力の高い息子ですが、展示されているほとんどの言葉をインプットしているようで、ゆっくり時間をかけ、たまに椅子に座り込みながら、広島であったことに向き合っていました。

その後ろ姿を見ている自分は、多くの思いが心の中で交差していたんだろう、ある意味感情が真っ白な感じしていました。

息子が来館者用のノートに刻んだ言葉を見ると「この戦争で人は人でなくなったのだ」という言葉。
ボクはあらためて真っ白な心にこの言葉を書き込み、残りの人生を歩んでゆくことになるんだろう。

そして、広島向き合ったことに対して12歳はこれからどう生きてゆくのだろうか?

正義感の強さが脆さに思えてしまうことのある12歳だけど、この日のことがひとりでも人を救うことに繋がるよう見守り、ただ暴力の芽が見えたら、その根を断ち切ることは大人の責任をしてやって行かねばだなあ。

そんなことを考えていたら、旅の最後に鹿児島の知覧に行ってみようと思いました。

北九州-広島の後、熊本で楽しい仕事を頂き、そのクライアントさんである高橋酒造さんが米焼酎を醸す人吉の多良木町まで連れていってもらい、長年の酒造りが人と自然とが共生した美しさの中で行われてきたこと、2年前の豪雨被害からの復旧状況など確認。(復興ではなく復旧だなあ)

明治維新というものがあり、
主権がちょっと「民主」というものに振れつつ、
西洋列強の植民地支配は相変わらず脅威で、
いくつかの戦争で成果を残すも、
農村や漁村といった日本を支えてきた人々は貧しさの中にあり、
軍事国家を維持することを、さてどうしよう。

ボクなんかが簡単に語れる判断なり思い込みなり勘違いも重なったりしたんだろう。

ただ、今めにしている多良木の風景はなんて美しいんだろう。

人がなんとか生きようとして力合わせ工夫し生まれた景観、そこで酒を造り続けることの豊かさ美しさ。

こんな人と自然との風景を心にインプットして知覧へ。

自分の中でモノクロの映像であった知覧は、緑豊かな台地の上にありました。

島津藩の出城としての城下町として栄えた歴史ある街並み擁する土地で、戦争遂行のための合理的な判断で戦闘機乗りの訓練場として整備された知覧が、戦争末期には沖縄戦での特攻の出撃基地と変化したこと。

本来エリートである若者が武器にされること。
その作戦立案した者、指示した者など、そうか、今の自分より若い人だったんだ。

そして12歳の息子もあと5年、17歳で特攻に加わった人がいたこと。

青年の「純粋」を戦争遂行に利用したことについて、答えを求めずあれこれ考えてみたが、無感情という状況になったのは、初めて東日本大震災の被災地である福島県の豊間に行った時、広島に行った時、沖縄の摩文仁に行った時と同じ。

ただ、豊間で出会った少年との会話、
ボクが「あの辺は被害が少なかったんだね」という質問に、
「少なんくなんか無いよ!2人も死んだんだ」という言葉が心のなかでループして響いていた。

こうしている間も、世界のどこかで戦争が行われている。

東京にもどった8月6日。
広島の平和祈念式典を見ていると、子供たちが「平和の誓い」で「多様性を尊重することが平和に繋がる」と語っていた。
戦後77年の今、多様性から平和を語れる世代が生まれて来ている。

自分が社会に向ける視線もさらに豊かに磨き、ついつい見落とされがちな身の回りの小さな美しさに気づき、大切にしてゆく人生を歩まねばならないと考えている。

自分の中で色のついた知覧という場所が、若者の純粋を未来に繋ぐ場所であるよう願いながら、鹿児島中央駅行まで1時間ちょっとのバスに揺られた俺です。

136ヶ月め

2022 年 7 月 11 日 月曜日


今日は2011年3月11日から4,140日
591週3日
11年4ヶ月
136回めの11日です。

昨日は第26回参議院議員通常選挙がありました。

1947年4月2日に第一回の選挙が行われて26回め。

それが多いのか少ないのか?個人的には「まだ26回なんだ」という印象と共に、日本はまだ民主主義の試行錯誤の途上なんだろうなと思っています。

その選挙運動期間の後半で安倍元首相を暗殺されるという「あってはならないこと」の先で、投票日を迎えたわけですが、自分は引き続き「震災復興」と「行政改革」を目指す候補者を選ぼうと考えていました。

ボクにとって「震災復興」とは、人が生きやすい社会を考え続けることで達成するもので、まだ明快な答えは手に出来ていません。「共に考え続けよう」と語りかけてくれる候補者を探すことが自分の選挙行動だと言えます。
たとえば、1945年の夏に太平洋戦争が終結したとして、1956年の夏は、まだ日本の社会には戦争の硝煙が匂ってはいなかったでしょうか。
震災と戦争を同列に語るには無理もあります。しかし、多くの人が犠牲になった日からまだ11年しか経っていないんだという驚きが自分の中には確かにあるのです。

「行政改革」に関しては、『いかに民間が元気になるか、行政判断をシンプルにスムースに行うことで後押する』そんな願いも込めて考えています。
「民間」とは「人に良かれと思う志を持った人が、人を助けるものを作る」本来日本が得意としていた”ものづくり”の復活の願いがあり、”ものづくり”には音楽やデザインやアートなど、クリエイティブな行為を含み考えています。

もしくは、息子が通っていた小学校の正門前の壁にヒドイ落書きをされました。
コロナでお互いの顔が見えぬ今、全国の学校に少女誘拐を仄めかす予告が届くという、子どもたちを不安に陥れる事が起きているのに、この勝手に描かれた落書きを消すためには、いくつもの手続きを行う必要がある。
勝手に描かれた落書きを勝手に消すと「けしからん」と言われてしまう。

しかもこの壁、半年前にも落書きされたのを、行政がペンキで塗ったばかりなんよね。

この壁の反対側、学校を囲む塀はに子どもたちとペイントしたのは去年の秋。

薄暗かった坂道が明るくなって、落書きもされず。

問題はシンプルで、落書きを消すこと。

方やついでに子どもたちの絵が描かれ街が明るくなった。

方や行政が納得する結果を正当なプロセスで行うことが、目的になっていないか?

ということを、参議院議員選挙選挙でも考えてしまうんです。

しかし、ウクライナ戦争、中国や北朝鮮の脅威、物価高騰、エネルギー問題が目の前の脅威として語られた今回。その先の未来を明快に言葉で語った候補者がいたのかどうか。

「政治的」という言葉があって、
「一般人が政治的な発言をするのはけしからん」とか「アーティストこそ政治的な発言をすつべき!」などなどの強い言葉に出会うことがありますが。
その「的」ってなんだろう?

ボクには「政治のことは政治のプロに任せておけ」「その他発言は所詮政治的なものでしか無く、耳を傾けるに値しない」そんな考えの「プロ」なオジサン政治家さんの姿を想像してしまうんよね。

が、生活、仕事。子育てや介護、平和とか夢でもいいや、そして何より自分のことより息子たち世代の未来!そうしたものには政治がコミットしていて当たり前で、そうしたものを大切にしたいと願う自分の1票は、政治へのコミットであるわけで、それを「的」とかの言葉でぼやかしてはいけないと思っているのです。

そうした課題解決のために求められるのは、旧来のイデオロギー対立などぶっちぎって、建設的でオープンな会話が出来る場所創りなんだろう。ということを、この11年「被災地」と呼ばれる土地で感じて取ってきて、今は「オープンなアイデアの共有と大まかな合意」で社会を動かして行ける資質の人を探すのが、選挙と呼ばれる現場でのボクの社会参加なんだがな〜〜、、

なかなか難しい第26回参議院議員通常選挙でありました。

「妊娠、出産、子育て支援」などというワードがオジサンの口で語られるようになったのは、半歩くらいの世の中の前進を感じたりもするのだけど、それにしたって女性候補が少な過ぎて気持ち悪い。

あらためて、人の命が不当に奪われて良いはずが無く、
安倍さんのご冥福を祈ると共に、ひとりの政治家への想像力を働かせている自分です。

それと同時に、
41歳の男性が自暴自棄に追い詰められてしまった社会について、
そこに分断があるのだとしたら、その原因について考え倒さなければと考えています。

社会に分断があるとして、
ならばすぐにでもやらなければならないのは人の居場所作り。

2011年3月11日からの大きなテーマで、自分が描く1枚の絵だって、だれかがこさえる小さな唄ひとつだって、そんな居場所のひとつに出来ないかと考え続けているのです。

135か月め

2022 年 6 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,110日
587週1日
11年3ヶ月
135回めの11日です。

現在滋賀県の東近江市能登川町立図書館で「暮しの手帖」元編集長の澤田康彦さんとの展覧会「いくつもの空の下で」を開催中のボクのことを、京都新聞ジュニアタイムスが取材してくれました。

子どもたちに向けて、悩める子ども時代を過ごして、悩める今を生きるボクの話を、噛み砕いで編集してくれた記事に感謝。

過去を振り返ることより、今を生きることに精一杯な自分にとって、人との会話から自分を確認出来ることは、ありがたいことです。

じゃあこれが子どもたちの役にたつのかどうか、、
引き続き「わかった顔」しない生き方を続け、自分に興味持つ子どもがいたら、その時の全力で答えられたらいいな。ちょっとくらい間違ったこと言うかもしれないが、ともかく全力で。

ところで、
京都新聞と同様のインタビューを雑誌 SWITCH で受け、
6月20日発売号の記事となっています。

SWITCH-Vol-40-No-7

今の自分を形成している子どものころのことから、
セツモードセミナーで長澤節から受けた啓示など、
京都新聞とほぼ同じ内容で語っているはずですが、
こちらではトンガった大人に向けてグサグサ刺さる編集。

自分を振り返り、ひでえやつだな〜と嘆くも、
すんません、これが俺なのか、、
です。


そして、やはり同様のことをネットメディアでたっぷり語りました。
IMAGINEZ大学 with Discovery

https://www.discoveryjapan.jp/program/imaginez-univ/

こちら配信開始は7月になるかと思いますので、詳細あらためますね。

が、なんでこのタイミングでこれだけ発言を求められるのだろうか?

今日台湾よりオードリー・タンさんに関する近藤弥生子さんの著作が送られてきました。

台湾の天才的なハッカーで、日本で言うところのデジタル庁の大臣に就任したオードリー・タンさん。
彼女が社会にもたらしたことについて、ボクに日本からの視点でコメントを寄せてくれとのオーダーを頂き、東日本大震災後の社会を思い短文を寄せたので、紹介してみます。

2011年3月11日、日本は未曾有の大震災を経験します。
あれから10年。被災地では人々の「対話と共有」の痕跡を感じる、優れたデザインの社会的インフラに出会うことが出来ます。
困難を解決するため、1人ひとりの中に埋まる答えと対話し、共有することで導き出す最適解。
それはきっちり10年未来の発想であり、オードリー・タンさんはそれに輪郭と名前を与え、1人ひとりが使える道具に変えてくれているように思います。

以上。

ボクが3月11日以降出会ってきたことには、良いことも残念なこともあります。
そんな中で、困難の中にあるからこそ、他者を思い関わる人たちにとって最善の解決を導き出す努力とアイデアに出会うたび、深い共感と感動を感じてきました。

そうした「被災地」の発想は、日本の社会をより良いものにする力があると直感し、自分で暮らす街や触れる人と共有することを続けてきたはずです。

が、共有するための言葉は足りていなかったかなと。

オードリー・タンさんが社会の課題解決のために実践され、オープンソースとして社会共有されていることには、自分が見たり感じたりしてきたことが、明快な言葉で語られています。

「あの日」から11年3か月の今、
あらためて自分の言葉で震災や被災を語り、社会の生きづらさや息苦しさにちょっとでも風穴が空けられるよう。自分が身に付けた社会の課題解決に至る方法を実践してゆかねばなと。
それは何気なく描く1枚の絵にも反映させてゆこうと考えています。

台湾からもう一冊。
自著「台湾客家スケッチブック」が紹介されている政府系(?)の雑誌を届けていただきました。

この雑誌の特集は「女性」

世界第6位
アジア圏では第1位を誇る女性の社会での活躍が進む台湾。

そんな台湾のそれぞれの現場で活躍中の女性が、
台湾語と英語のテキストで紹介されています。

気象アナリストやフードコーディネーター(で語りきれないが)など、サスティナブルな世界を目指す社会の課題解決の最前線で活躍される女性たち。いい顔してる。

この辺、日本でやるとルッキズム(外見至上主義)に陥ったものになりやしないか?

もちろん、台湾の社会だった問題はあるのだけど、でも台湾の社会や人から学び日本の社会に投下するべきことは沢山あるな。という実感。

話はちょっと飛躍しちゃうかもだけで、
クラスの一番すみっこで静かに小さくなっている女の子が、実はすごいこと考えていたなんてことは、当たり前にあることで、ボクのようなものは絶えず小さな声に耳を澄ませてゆかねばならないのだ。

 

絵本「はるのひ」日本絵本賞受賞

2022 年 5 月 23 日 月曜日


2021年2月に発表した絵本「はるのひ」が、
2022年5月、第27回日本絵本賞を受賞しました。

父が亡くなった2018年の春の日から、3年の制作期間で生まれた1冊。

絵本はボクひとりで作れるものでは無く、この1冊は特に、編集担当のTさんの27歳から30歳までの青春の一冊と言っても良いくらい、莫大なエネルギーを注いでくださったことで、生まれたものです。

また、ブックデザインの城所 潤さん、舘林三恵さんから頂いたアイデアにより、より美しい本として、この物語を必要とされる方へ届けることができます。

さらに、たいていの印刷屋さんが顔をしかめるボクの”印刷しずらい絵”に真っ向立ち向かってくれ、発刊直後に「特にp30〜31の見開きで震え上がれ」とTwitterでつぶやいてくださった、東京印書館様のサイコーの印刷無くしてこの本は語れません。

この賞はそんなみなさんに対してのものだと考えています。


森の向こうに煙をみつけた”ことくん”が、走って煙を見にゆくだけの物語ですが、
その舞台の参考にしているのは、ボクがこれまでお世話になってきた土地です。

まず、生まれ故郷の群馬県南部、赤城山の麓の田園風景。
おばあちゃんの家の田んぼや畑で遊んだ経験と共に、1970年あたりを境に徐々に失われていった里山の美しさなんてものも、思い出しながら筆を走らせました。

そして、子どもたちとのワークショップセッションを重ねて5年目となる、福島県奥会津エリアの柳津町や昭和村の風景や光、土地の高低差の面白さ。
なにより元気な子どもたちの姿!
彼らがこの絵本を好きだと思ってくれたら、それが一番うれしい!

もしくは、やはりワークショップでお世話になっている、喜多方市で完全有機農法を実践する大江ファームの、夕日に溶けてゆく美しい畑。

夕日と言えば、東北の太平洋沿岸部で出会ってきた色彩。
この絵本は山間の物語だけど、海沿いの町で見た色彩を盛り込むことで、「どこか知らないけどステキな場所」の演出が出来たはずです。

物語の大切な装置となる森は、大分県杵築市山香町の森の中でカテリイナ古楽器研究所を営み、ものづくりと音楽と反農の暮らしを実践する松本家とのお付き合いから、体を持って覚えた喜びを絵にしています。

さらには、2016年の初夏に花の絵の展覧会を開催させてもらった、栃木県那須塩原市黒磯のSHOZO COFFEE。
展覧会を前にした2月と3月に、SHOZOに宿泊しスタッフとワークショップしたり、那須野の山を自分の足で走って感じた土地や人との距離感。

やはり展覧会を開催させてもらった熊本県津奈木町の”つなぎ美術館”
そのきっかけとなったアートプロジェクト”赤崎水曜日美術館”に関わったことで得た、土地と人との関係性。これはその対岸、天草でも経験させてもらいました。

色彩に決定的な力を与えてくれたのは、2019年の夏に3週間かけて取材旅をした台三線エリアの濃厚な風景。
それ以上に、そこに暮らす客家の皆さんから与えていただいた人情が、色に強さと優しさを与えてくれています。

ボクが当初考えた絵本のタイトルは「とーちゃん おーい」で、
主人公の名前は「ととくん」でした。

「おーい」の原風景は、カミさんの九州の実家のお父さんが、2歳の息子に向かって「おーい」と声をかけて遊んでくれていた風景。

自分は父親とそんな経験あっただろうか?と記憶を辿るも、1枚の写真に辿り着けただけだったけど、それでもなんて安心感のある風景なんだろと、自分が家族を取り戻したような気持ちで見ていました。

その後作画を担当する絵本「とうだい」でも印象的に使われていた「おーい」という言葉。
嵐の中で灯台が光と共に叫ぶ「おーい あらしにまけるな とうだいはここにいるぞ 」という声!
それに答え「トットットット」とエンジンをふかし舵を切る小さな船。

斉藤 倫さんの物語に、ボクこそ見守られていたように思います。

そして、「おーい」という言葉に向かって「とっとっとっと」と近づいてゆく子どもの風景を想像すると、逆に「おーい」という安心感に背中を押され「とっとっとっと」と駆けてゆく子どもを想像。

震災後、多くの言葉を駆使して相手の言葉に蓋をするような事がネット上で見られるも、被災地と呼ばれる場所では、そんなもの何も役に立たないでいるのを知ったボクは、子どもたちに「おーい」とただただ大らかな声をかけられる「とーちゃん」でありたいと願いました。

そう願うことで、「おーい」と大らかな声で語れる人にたくさん出会えたはずで、その声はこだまして、さらに次の大らかなる人の発見に繋がってゆきした。

そうすることで、ボクもボクの家族も生かされてきたような10年ちょっとの歳月。

残念ながらこの本が完成する前に亡くなってしまった方もいます。
しかし、大切なことはこの物語の背景に塗り込んであります。

今回頂いた賞が、そんな1人ひとりをこの物語と共に生かし続ける裏付けになってくれたらいいなと、
心より願っております。

2022年5月
小池アミイゴ

追記。
代々木あたりのみなさまへ。

「はるのひ」小さすぎる原画展
2022年5月26日(木)~6月5日(日)
at 渋谷区富ヶ谷2丁目のパン屋”ルヴァン”のカフェ”ルシャレ”
〒151-0063 東京都渋谷区富ケ谷2丁目43−13 GSハイム代々木八幡

へっぽこな自分を生かしてくれている代々木の街みなさまへ。
みなさまの支えがあってこそ作れた絵本が、なにやら立派な賞をいただきました。

つきましては、みなさまが愛してやまない街の誇りとも言える場所で、小さな原画展を開催させていただきたく存じます。

通常は店休日である月曜日、5月30日は1日書店として「はるのひ」限定20冊の販売をします。

11時から17時くらいまで、ボクが店内でうだうだしていますので、茶などご注文の上、お声かけいただけましたら、絵本の背景に塗り込んだお話などさせていただきますね。

小さな店ですので、おひとり、おひとり、バラバラとお運びいただけたら幸い。

小さくとも風通しの良い会話の現場になればいいなと願っております。

!)この日以外は人気店ゆえ、
いわゆる一般のお客様で入店出来ない可能性があります。
わざわざお越しになられるようであれば、ボクにご一報くださいませ。

134ヶ月め

2022 年 5 月 11 日 水曜日


今日は2011年3月11日から4,079日、
582週5日
11年2ヶ月
134回めの11日です。

今年のゴールデンウィークは、PCR検査をした上で東北へ。

昨年から秋田市から北に20kmの井川町の桜まつりで、
子供たち向けの絵を描くワークショップを開催しました。


井川町のアイデンティティ、桜の名所”井川国花苑”を中心とした地域ブランディング、

井川町に暮らす架空の「いかわさくら」というキャラクターが井川町を紹介して行くサイト、
いかわさんといっしょ” のビジュアルを担当したことでご縁をいただいた町に対して、
ギャラの一部を子どものために還元するという意味や、
イラストレーションだけじゃなくて、絵を使った喜びをもっと知ってもらえたら、
これからさらに濃密なお付き合いが出来るのではないかと考え、
総合プロデューサーの成田洋一さんに「勝手にゆくよー!」と提案した次第。


結果、行ってよかった〜!な子どもたちとの出会い。
さらには、子どもたちを見守る親御さんたちとの語らいは、
井川町での次のアクションにつなげてゆけたらいいな。

ちなみに、
昨年HPや町を紹介する絵本に使った絵は、
町が買い上げる形で、今後も色々なメディアに載せてゆくことになっています。

その1つ1つのクオリティを、成田さんやボクなど、関わるみんなで見てゆくことで、
町にとって効果的な使われ方を担保してゆこうという作戦。

継続的な街づくりに緩やかに紐ついていられる、絵があるからこその関係性。
他の土地でもやって行けたらいいなと思っています。


しかし、春の秋田はのどかだな〜

井川町では、そののどかな風景を表現するために、
HPに反映させた絵のほとんどは和紙に水彩絵の具で描いたのだけど、
これは、他の土地では違ってくるのだろうなと。

今会っておくべき人いるので、
秋田から岩手県の太平洋沿岸部を目指しました。


新幹線が岩手に入ると、やはり空気が変わる印象。

盛岡では、新幹線から山田線の乗り換え時間があったので、
ちょっと街を歩いてみました。

以前、真冬に歩いた北上川沿いの遊歩道。
対岸に作られたカフェスタンドを利用する人たちの穏やかな姿。

震災直後の緊迫した風景から11年。
この風景もこれからの自分の基本とのひとつとして、
発想を進めてゆこうと思いました。


そして山田線で太平洋岸の宮古まで。

大概はバス移動なんだけど、
10年前の真冬に乗ってからの二度目ましての山田線。


秋田より険しさを感じる景観の中、約100kmの旅。
思うのは、この地に鉄道を轢いた人たちの執念だったり苦労。

が、真冬の時と違い、自然と向き合う喜びもあったんだろうなという気づきの春です。

去年の6月ぶりの宮古の街では、震災直後には想像できなかったデザインに出会いました。


このパン屋、うまそううだな〜!

とか、

ここで何が起きているんだろう?
という楽しい想像とか。


大津波を被害が撮影された旧市庁舎は取り壊され、
インクルーシブな遊具の並ぶ公園になり、子どもたちの歓声がこだましてたり。

震災から10年経って、コンクリートの復興から、
デザインやイラストレーションてものが活躍する復興にシフトしなければと語ってきましたが、
やはり同じ考えの人がいてくれたことがうれしい。

さらに人の救いになるような質の高いデザインを被災エリアに投下してゆくことで、
被災地と呼ばれる土地が、ある意味日本の最先端エリアとなればいいなと思うのだが。

まあ、自分でやれることを重ねてゆくしかないね。


宮古のフィールドワークは、10年前の真冬と同じコースを、やはり徒歩で。


もはや当たり前の風景になった、漁港をグルッと巡る巨大防潮堤。

この「当たり前」からなにか美しきものが見つけられるか?
ともかく歩いて。歩いてい。


海の景観が失われることに対して開けられた窓。
海側から見る風景に「復興とはなんだろう?」とあらためて考える。


景勝地「浄土ヶ浜」に向かう道を逸れ、トレッキングコースへ。

岩手には岩手ならではの光と色彩が演出する美しさがあるね〜

これまでボクは「なぜ人はこんなに厳しい環境の土地で生きようとしたのか?」という想像で、
三陸のリアスの地のことを考えてきたのだけど、
これからは「こんなに豊かな土地を見つけた人の喜び」なんてことも考えてみなくちゃだね!

そして浄土ヶ浜。

10年前は息を止めるようだと思った風景には、ゴールデンウィークの人が溢れ、
自分の凍てつく記憶も、溶けて消えそうな感じさえする。


これからは、朗らかにさえ思えるこんな風景を描くべきなんだろうと思い、
来た道を戻る。

10年前の冬は、持っていたペットボトルのお茶がシャーベットになっていたなあ〜。

来た道を戻ると先ほどの防潮堤のエリア。

震災後の瓦礫の土地を背に見た、漁港を包む柔らかな光が忘れられず、
防潮堤の向こうへ。


ああ、やっぱりこの光だ。

10年前の真冬はもっと違う色をしていたけれど、
この柔らかさ、優しさ。

自然に人が調和して生きているからこその凪な光。

土地の人がきっと「何も無い」と語るであろう風景に向き合い、
ただただ灰色のグラデーションの変化を追い続けた数十分の時。


人が生かされる風景、もしくは色彩って、
こんな風に曖昧で絶えず変化するようなものなんだろう。

そんな10年たっても変わらぬ実感と、
10年分確かになった言語。

まずは絵にしなくちゃだ。


次の日は朝早くから、三陸鉄道北リアス線で大船渡を目指す。


大船渡には、東京の青山のカフェで働いていたSさんが、
地域の力になりたいって、1月からUターンしている。


彼女が語る故郷や家族への愛。

それは、そんな人が1人いるだけで、その地域には希望が生まれるんだろうという想像に繋がり、
今このタイミングで会っておきたかったのです。


実にぼんやりとした日常の場所を、ただただ歩きながら今の心情を交換。

昨年6月に初めて行って歩き倒した大船渡だけど、
それでもぼんやりとしかわからなかった街の魅力ってものが、
ぼんやり散歩で明快なフォルムを見せてくるのだから、
人って面白いなあ〜!


震災直後は受験生だった彼女が、学習机代りに使ったという図書館。

その立派さに、土地の人々が子どもたちに託した未来というものを感じた。

漁業から工場の街へと変わっていった町が、本当に大切にしたもの。
震災もコロナも超えて、ボクの知る限りは彼女ひとりだけど、
帰ってきたんだね〜

そんな「大船渡のおかえりモネ」さんが、もう1人のおかえりモネさんを紹介してくれた。

なにやら迫力ある空間。

人と空間に出会い、即ワルダクミ発令。

この場所で交わした言葉、今人に必要とされる表現についてなど、
間違いなく東京の発想のトラック4分3分周先を走っているはず。

出会ったからには形にしなければ!
ということで、大船渡、またねー!

の前に、盛駅で友人と待ち合わせ。

駅の待合室で、生きること、人との共生、コミュニティ創りなどなど、
2時間語り合った狂気の人々。

愛しすぎるぜ。

Sさん、まずは元気で!

そして気仙沼。


ゴールデンウィークは3年ぶりに人で賑わったと。

ということは、整備された港湾部では震災後初なイメージなのかもね。


ボクが泊まったホテルは、津波被害が激しかったところで、
そんな場所で眠れることに驚きと喜びと、ちょっとの怖さとを感じつつ、
夜の早い気仙沼で、晩飯難民になり、夜の気仙沼を駆けたのでした。


次の日は海産物の販売のされ方をリサーチし、

マグロの競りも眺め。

「マグロ、この一本にかけた」って高笑いの人たちの姿に、
やっぱ漁師最強だぜ!と思い。

唐桑へ。
いつもお世話になっている”家族カフェ” プランタンへ。

しっかし初夏の唐桑も、美しいね〜!

何度か訪れた、太平洋に突き出た細長く小さな半島なんだが、
「ここに住みたい!」と思った人たちの気持ちが、今回一番感じられたかも。

海からの急斜面、そこに点在する集落、それを縫うようにし走る曲がりくねった道、
豊かな木々のシルエットなどなどが構成する構図の向こうに、太平洋。
やませが運んでくる深い海霧が神秘さを演出している。

そして目を足下に転ずると花。

名も無き花が、草刈りのついでに刈り取られることなく咲いている。


大自然に、人の手の入った小さな自然が含まれる優しさ、安心感。


このなんでも無い美しさは、
この土地を愛している人々が守っているからこその景観。


現在「みちのく潮風トレイル」だったり、
宮城オルレ」のコースに選ばれていること、
わかる〜!

なんつーか、歩いているだけで幸せになれる、なんなら健康にもなってしまう。

これまでの「思い出獲得型」のレジャーでは無く、
自分の中での「幸せ自己発電型」レジャーという未来が、ここにはあるなあ〜。

で、あらためてプランタンへ。
https://www.instagram.com/printemps_non.no/


細々と家族で出来ることをやっているって語るノリちゃん。
実はすごいことやっているんだと思うぜ!

ご家族で取り組む精一杯は、
間違いの無い一杯。

土地へも人へも愛を感じる一杯のうどん。

この一杯のために唐桑に行く者はいる。

いや美味かった〜!


自分が商品開発でお手伝いした逸品。

マスターにどうですか?と尋ねると、
「お陰様でけっこう出ました」との笑顔の一言。

自分の手がけた仕事、
それがどんなに小さなものでも、
そこに確かな人間関係があれば、
1200kmの移動も厭わず確認しに行く。

こんな仕事や生き方を学んだ、
東京と地続きの東北という場所。

またね〜!


peace!!

133ヶ月め

2022 年 4 月 11 日 月曜日


今日は2011年3月11日から4,049日、
578週3日、
11年1ヶ月、
133回めの11日です。

11年前の3月11日の大震災発災後目にした「人の命が不当に失われてしまうこと」について、今も考え続けています。

自分が物心ついた頃、ニュースではベトナムで戦争が行われていることを伝えていました。
日本や、1972年5月15日までアメリカの占領下にあった米軍基地から、多くのアメリカ兵がベトナムの戦場に送り込まれ、
日本もこの戦争の最前線基地のような役割をしていました。
1975年4月30日は、南ベトナムの首都サイゴン(元ホーチミン市)が北ベトナムに接収され、ベトナム戦争が終息に向かうのですが、こうしたことはボクの小学生から中学生時代と重なるも、学校では「今何が起きているのか」を教えられることは無く、ただ目にするニュース映像から、「今戦争が行われている」という曖昧な不安を抱えるだけなのが、ボクたちの世代だったのではと想像します。

ただ、ボクの家には報道写真家の石川文洋さんの、ベトナムの戦場や戦時下の庶民を撮影した写真集があり、戦争の不条理さ、出口の無さなんてものを感じることは出来ていたはずです。
(その割に、プラモデルの戦車を作るのが趣味だったり、仮面ライダーが悪い奴らを根こそぎぶっ倒してゆく姿に溜飲を下げたりなのだが、、)

そして、その後も世界では戦争が起き続けます。
もしくは「紛争」という名前に置き換えられたものも無数に起きます。

世界は冷戦という東西の大国間でのチキンレースのような状況にあり、上京し大学に入学したばかりの頃は、出来立ての友人との異性や音楽にまつわる話と共に、「今戦争が起きたら戦場に行くのか?」なんて会話をしてたな〜。(自分は、侵略されたら闘わねばならないだろう。そんなこと言っていたはず。)

それでも「文明国」を語り、国連でも重要なポストにあるような国は、戦争を避けるために尽力するものだと思っていたら、ソ連がアフガニスタンに侵攻し(実際は大学入学前だが)、イギリスはフォークランドで「紛争」を起こし、アメリカは湾岸戦争の当事者になります。

そうしたニュースを耳にし目にする度に、石川文洋さんのカメラの先で起きたことを振り返り、思い出していたボクです。
日本はバブル景気という狂気に踊り続けているのだけど、この瞬間に不当に失われている人の命がある。

そんな居心地の悪さを感じ、ちょっと自分を追い込むような生活もしてしまい長期の入院を経験し、1993年3月には「群馬の実家を火事で失った」なんて先で、1995年1月に阪神・淡路大震災、そして3月に地下鉄サリン事件という、命について真剣に「これまでの価値観をひっくり返しても考えなければならない」事件に、きっと「被害者では無いけれど当事者である」とう認識で向き合ったはずです。

今振り返り、その後自分がやったことは、もしもの際に真剣に語り合える仲間を創ることではなかったかと。
CLUBやCafeで創るイベントの背景には、かならずそうしたテーマを滑り込ませておき、語り合える仲間を可視化させていった。

そして、ニューヨーク2001年9月11日
さらに、新潟の中越地震や福岡の西方沖地震と、共に考え行動する共を得て、それは小さな力でしか無いけれど、愛しき何かを生かすだけの力にはなるアクションが起こせた。

そんなアクションを重ねる中で「人ひとりの命が失われる重大性」というものを心や身体に染み込ませ、思いがけず自分が人の親になることにもなった。

が、2011年3月11日に起きたことは、そうした経験も一気のどこかに流されてしまったように思えた。

この未曾有と呼ばれメディアで共有されまくった悲劇に対し、ボクは圧倒的な当事者となったはずだが、それを語る言葉を持っていないことに気がつきました。
これはまずいぞ!当時1歳だった息子が物心ついた時、せめて自分の言葉として語れるようにしておかなければならないと確信し、北の方に弾け飛んでゆき、それは11年後の今も続いている。


今日は何を書こうか決めずにタイプを始めてしまったら、こんな振り返りになっています。

人は生きているだけで不条理に巻き込まれるものだ。

自然災害が頻発する日本で暮らしていると、そうした刹那な考えが身に染みて、可能な限り人間同士争いは無くさねばという考えに至ると、希望や願いも込めて思います。

しかし、世界のパワーバランスの中では、そんな甘っちょろいこと語っている場合では無く、必要であれば他者に対し不条理な死を与えていいのか?

文明とは100歩譲って戦争を起こすものであるとして、文化とはなんだろう?

今ウクライナで起きていることは、まったく起きるべきことでは無いと強く思う。

が、ウクライナもロシアも心の中では地続きであるという意識は、さらに強く思い、
自分の足元で出来ること、やるべきことを考えねば。

でなければ、3月11日に失われたものに対して申し訳ない。

2022
0411
PEACE!!