‘毎月11日の備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

72ヶ月め

2017 年 3 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から2,192日め
6年
72回目の11日です。

今日のボクは東京の代々木公園の脇にある”はるのおがわプレーパーク”で
この街に暮らす子どもたちと大きな絵を描いています。
http://harupure.blogspot.jp/2017/03/311.html?spref=fb

時を同じくして気仙沼では6年続けられてきた「3月11日からのヒカリ」という鎮魂のイベントで、
イラストレーションを活用していただける光栄をいただいています。
http://311hikari.jp/livecommentary/

3月18日からは岩手県の宮古で26日までの展覧会が始まり、
初日18日はやはり街のみなさんと大きな絵を描くワークショップを開催します。
https://www.hokkori385.com

2011年春、未曾有と言われた震災の被害を目の前にし、
少なからずの人が困難な立場に置かれた人のために立ち上がり、
しかし、ほとんどの人が無力感の谷に突き落とされたようではなかったかと。

ボクは「義援」という『困っている人に対し当たり前に行う名も無き行為』を自分の出来る範囲で行ったら、
あとは自分の目で足で「被災」を知ること、
さらに、被災の向こう側、被災地と呼ばれぬ場所で生きる無力の1人ひとりに向き合い、
凍りついてしまったようにしている心を温め、お互いの元気をわずかでもいいから確認し、
そんな無力や微力を結集させることでしか得られ復興のあり方を模索してきたはずです。

誰かに頼ってしまうとパーソナルな視点がズレてしまう。

ひとりだからこそ出会えるひとり

それはとても大きなことなんじゃないかなと、
目的地も持たずひとりで薄暗がりの中を走っていた感じです。

それが「あの日」から時を重ねる中、
わりとすぐそばを誰か走っている気配を感じるようになり、
さらに時を重ねその姿を目の端に捉えるようになり、
あれから6年めの春は、ついに並走者と声を掛け合えるようになった。

そんな感じです。

毎回のようにここで語ることですが、
絵に出来ることはほんとこれから。

「被災地」と呼ばれる場所、
宮古で自分の描いたものを持ってゆくのは大変勇気のいることで、
少なからず怖さも感じていますが、
そこに共に走っている人の姿を捉えられるようになった今、

許されるのであれば、
自分の描いた絵が思いっきり働いてくれたらいいなと願っています。

先日は宮城県で養殖漁を営む共栄丸さんと、
直売所のある市場の看板を制作する話を進めていました。

しかし、現地で関係している人の多い現場、
いくつかの条件を満たさず計画は頓挫。

でもこういうことは東京の価値観を押し付けてはならぬことで、
あらためてコミュニケーションを深め、
さらに現地の方々の必要とするものを探って、
さらに良いものを作ってやろうじゃねーか!と、
気合だけは十分に、されど焦らずやってゆくつもりです。

そんな共栄丸さんから、悲しい報せ。

市場の前にあった海が無くなったとのこと。

計画されていた防潮堤が完成し、
海が見えなくなった。

それは事前に分かっていたことだけど、
なんだろ、この喪失感。

ただただ悲しい。

もちろん人命が優先されることなんだけど、
しかし、春に海を失うことはただただ悲しい。

ボクは海に関係のない場所で生まれ育ち、
大学に入るために東京に出てきてみたら、
やはり海に育った人は海をまとっていて、
それがどうにも魅力に感じたんだよね。

海の無い場所で生まれ育ったボクは、
その魅力の意味がわからず、
それがどういうことか追いかけているうちに、
たとえば西表島の誰もいないようなビーチに腰掛けていたり、
やはり誰もいない早春の葉山のビーチで石ころを拾ったり、
長崎の稲佐山から遠くに軍艦島をみつけため息ついたり、
瀬戸内をあてもなく漂泊したり、
諫早の干拓地で海を探しにどこまでも歩いていってみたり、
宮城県の塩釜で出会った人からカモメを見た思い出を聞いたり、
福島の美しいビーチで灯台の灯りを追いかけたりして、

ずいぶん時間がかかったけれど、
その魅力は海だったんだと思うようになりました。

海に育った人は、
空と海とのわずかの隙間で生きてることを知っている。

地べたの上でしか生きることの出来ない人間が、
空と海と地べたのキワを見極め生きること。

それは日々生と死のキワを確認して生きることなんだろう。

猛々しく見える漁師のおっちゃんでさえ、
海の無い場所で生まれ育ったボクが持ち合わせていない、
慎ましやかではあるけれど仕立てが良く
気持ちよく風を通すシャツを一枚羽織っているように思えてならない。

目の前にあったはずの海を失うことはなにをもたらすのだろうか?

重厚な防潮堤は社会に死角を生み、
その陰で船上荒らしなどの犯罪が多発しているそうです。

悪しき心は弱き心を引き寄せます。

「壁」とは悪しきものを遮るけれど、
白か黒かの分断の向こうとこちらで、
それを大切に扱う限り人の魅力になりうる「弱さ」もただ否定され殺され、
悪しきもの餌にされ、結果悪しきものを増幅させてしまうのではないかな。

あらためて、
これは単に防潮堤を否定する話ではなく、
命を守るために必要なものは、
その必要を精査し造られるべきで、

ただ、春に海を失うことで人の心はどうなってゆくのか?

絵なんてものに生かされているボクは考え続けなければならず、
そこに必要があれば、出来ることをやらねば。
ということです。

まずは宮古の春の海と再会し、
考えを深めてきてみます。

71ヶ月め

2017 年 2 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から2164日め
5年11月
71回目の11日です。

先日宮城県を中心に発行されている新聞「河北新報」に掲載された、
県内に暮らす18歳の人の投稿がネットでシェアされてきたのに出会い、
考えさせられました。

以下一部引用します。

2011年3月11日からの地震、津波、原発事故発生後、震災に意味付けをする人がたくさんいた。
「絆ができた」とか「家族を大事にするようになった」とか、建前でいう人がいっぱいいた。
だが、そんなものは震災前にだってあった。
震災が起きたことに意味なんてない。起きない方が良かったに決まっている。
だから私は、震災を都合よく語ったりしない。
あの日起こったことを、自分の記憶に刻む。ただ、それだけ。

まさにその通りだと思います。

もうちょっと言えば、
「絆」も「家族を大事に」も消費しやすい言葉に置き換えられてしまったなあと。
少なからずの違和感を感じて、まもなく6年です。

ただ、
2011年3月に13歳だった人にあやまらねばならぬことがあります。

震災の前に「絆」も「なにかを大事にする」こともあるにはあったけれど、
ボクたちオトナの多くはそれを大事にしていなかったはずです。

3万人が自殺をする国にあって、
「絆」なんてめんどくさいことなるべく考えにようにして、
それぞれがそれぞれの場所で演じるキャラを大事にするだけの、
とてもモロい関係性の中で孤立感を深めていた。

極端なたとえかもしれませんし、すべての人がそうであったわけでもないけれど、
しかし、それがボクたちだったのではないかと思うのです。

2011年3月11日、ボクたちは考えました。
考えざるを得ないものを見ました。

絶対的な喪失

しかし、
困難を乗り越える人間のしなやかな力強さ

ただその実感を共有することは容易なことでは無いとの直感は、
大きな無力感に変わり、多くは手付かずのまま今に至っています。

そんな中「絆」のような言葉に、ある意味すがってしまったはずです。

もしくは無自覚なまま「がんばれ」「立ち上がれ」なんて言葉を放つも、
結局自分自身を奮い立たせてるだけのおじさんたちとか、、

今18歳になった人の語る
『あの日起こったことを、自分の記憶に刻む。』

それだけの勇気を持てなかったボクたちです。

それでも願うことは、今からでも遅くない、
「絆」でもなんでも本当に大事にして育ててゆきたいなということ。

絶対的な喪失に対してなにか出来るはずは無く、
悲劇は悲劇のまま静かに胸に刻み、
しかし、ボクたちに足りていなかったものを1つひとつ確認し、
これから未来、特に18歳とか12歳とかの人にとって好ましい未来に必要とされるものに、
みんなして育ててゆけないかな。

18歳の人の静かな叫びに答えられるかどうか自信無いけど、
自信無い部分は、志を共にする人を見つけ、語り合い、
しなやかに力強いものへと育ててゆこうと思います。

以下、
先日東京-横浜での会期を終えた展覧会「東日本」から思うことをちょっと。

ボクのやっていることをザクッと言葉にされてしまうと、
『「被災地」と呼ばれる場所を歩いて絵にしている』です。

しかし、ボクはなにを見ているのだろうか?

4度めの開催となった今回、
あらためて自分の視線というものを考えてみました。

特に今回は、ギャラリーに足を運んでくださる方の多くが、
実に的確にボクが描いたものの本質的なものを言葉にしてくださり、
4度重ねてきた意味の深まりを感じながら、
自分の視線というものを知ることが出来たかもです。

生きる、というか、暮らす、という中で、
ボKうたちはものを見ているようで、
実はほとんどのことを思い込みで感じているんでしょう。

「見る」ということは「見なければいけない」という意識の指示で行われるのだけど、
その背景にある思惑で都合の良いものに置き換えられている。

意思を持って見てるものの多くは、
実は「見ているつもり」のものなんだろうなと。

なので、絵を描く場合も「見ているつもり」のものに惑わされて、
どうにも「見た」感動の本質に触れられないでいる座りの悪さを感じてばかり。

今回の展覧会を通して、
「わたしこの風景の場所に住んでいるんです」
「わたし、この風景の場所に行ったことあります」などなど、
リアルな既視感をもって絵とご自身の経験を語ってくださる方がいて、

そんな方の話を伺っていて気がついたのは、
ボクたちは目の端で見ているものが莫大にあって、
それは「見ているつもり」でいるものなんかより
ずっと多くの情報量をボクたちの無意識にもたらしてくれてるんだということ。

「見る」という意思の働かぬところで見ている「暮らしの風景」

それは大きな揺らぎと広大な曖昧さを有するものです。

たとえば車を運転して山道を走っているとします。

ボクたちの目は道路を見て、センターラインの位置を確かめ、
道路標識を確認しながら対向車を気にする。
たまにやってくる名所と言われる場所に視線を飛ばし、
時が進むにつれ変化する陽の光に対応し車をオーガナイズさせる。

そうやって視線を駆使させてゆくのだけど、
目の端で一瞬にして過去へ追いやられてゆく道路の脇の雑草や雑木林の灰色の風景、
なんちゃーことない人の家やつまらない庭木、見栄えのしない山並みや退屈な雲、
ぼんやりした午後の光や昨日だか一昨日に降った雨による小さな水溜り、などなど。

ユラユラ揺れて消えてゆく日常の風景。

ボクたちが想像力をそそぎ大切にし共有するべきものは、
こんなものの中にあるんだと気がつきました。

こじつけになるかもしれないけれど、
「復興」と言った場合、意思をもって視線を注ぎ造られる
防潮堤やかさ上げ工事や道路や病院なんてものがあるのですが、
もちろんこれはそれぞれの道のプロが取り組み、
その土地土地で必要とされるカタチで迅速に提供するべきものでしょう。

ただ、ボクのようなものがやるべきことは、
目の端に写っているはずの日常をどんなものにするのか?

非常に曖昧に揺れ動く領域ですが、
そこが1人ひとりの人生の揺りかごになるような優しきものであればなと。

「復興」の名のもとで開発の進む土地でも、
わずかの余裕を見つけられたら、
日常の中で目の端でとらえ消しとばしてゆく風景を、
ちょっとでも豊かなものに出来たらいいなと。

どうしようもなく微力ではありますが、
そんなものに光を当てる仕事を続けてゆこうと思っています。

70ヶ月め

2017 年 1 月 11 日 水曜日

今日は2011年3月11日から2133日め
5年10月
70回目の11日です。

昨日から青山のspace yuiで4度目の開催となる展覧会「東日本」が始まりました。
http://bit.ly/2irg4ZT

昨日の初日を終え、足を運んでくださった多くの方と言葉を交わし、
ひとつ気持ちを落ち着かせて振り返る今朝。

ちゃんと向き合い言葉を交わしてみると、
人の心の中では風化は進んでいない。

しかし、
街ゆく多くの人が考えることを放棄してしまっているんだろう。

そう思えた70ヶ月目の東京青山あたりの人模様。

それをボクは批判的に思うのではなく、
ボクはボクのやるべきことで、人と関わり語り合える、
そんなものを創り続けてゆくだけだろうなと、

この考えは展覧会の会期を通し、
引き続き人と言葉を交わす中で確認してゆこうと思います。

あらためて、

ちゃんと向き合い言葉を交わし続ける限り、
風化なんてことはあり得ない。

が、多くの人が、
たとえばオリンピック、たとえばトランプ、そんな大きな言葉に振り回され、
小さな言葉を見落し、人とちゃんと向き合うきっかけを失ってしまっている。
そんな70ヶ月めの無情を感じています。

去年の7月の終わり、熊本の益城町でコスモスの花を見ました。
住宅地と田んぼとのキワに咲くコスモス。
視線を振れば、地震で甚大な被害を受けた無常の風景が迫ってきます。

それでもボクは、真夏の強い陽射しを浴びたコスモスの、
透き通って輝く花びらの後ろ姿を儚くも美しいものだと感じて、
やはりボクが描くものは東日本での経験と同じく「被災」ではなく、
その土地に生きてきた人の暮らしの息遣いだったり誇りなんだと、

人の生活のキワに置かれた色っぽいコスモスの花の後ろ姿から、
益城町で生きてきた人の姿を想像したはずです。

だからって「せっかくだから正面の顔も見てみよう」なんで思ったら、
田んぼだかドブだかに足を突っ込まなきゃならない。

そうやって見たとして、
陽の光は順光で花を照らしてるわけで、
「見えてしまう」ってことで、後ろ姿から感じたものが損なわれてしまわないか?

そもそも自分自身が陽の光を遮る立場になってしまうわけで、
本末転倒なことではないか?

自分にはコスモスちゃんを振り向かせるほどの器量もないしな、、なんて自問。

コスモスの輝ける後ろ姿に心を奪われるも、
身の程に合わぬ欲にイタズラに振り回されるようなことはせず、
この場を静かに後にするだけなんだよな。

こんなことをあらためて言葉にしてみたのは、
昨日の展覧会でボクのフィールドワークでのアプローチの仕方を訪ねてくれた人がいて、

ちょっと答えに窮しつつ、
描いた絵を見渡して再確認。

「なにかを知ろうとしないこと」
「必要なものは勝手に心に飛び込んでくる」
「あとは察すること」

そんな答えを返したはずです。

特に今は「察する」という力が世の中から失われつつあるんじゃないかな。

人の知らなくてもいいことをほじくり返して、
なにか達成したような気分に浸っている。

そこには考えることも想像力なんてものもなく、
ひとつコンプリートしたら、またひとつという欲を呼ぶだけで、

もしかしたら「絆」なんて言葉も、
オリンピックと抱き合わせで使われる「復興」なんて言葉も、
ただただ消費されてゆくだけのものに思えてしまうのです。

去年の年の瀬に、被災地と呼ばれる土地に暮らす方から、
新しい命の誕生のご報告をいただきました。

それが自分の想像以上に嬉しい出来事として感じられたことに、
ちょっと驚いたボクです。

片や、ひとつの喪失から時を止めたままの方、
そんな方がほんとに多く存在することを
心の中に置いたまま暮らしている今でもあります。

ひとつの命の問題に先回りしてなにか語ってしまうことで、
なにかを得る人もあるだろうけど、

ボクは誕生にも喪失にも自分の無力を突きつけられてばかりで、
ただ察し、その時目に入った小さな入江のキラキラ光る水面や
陽に照らされたコスモスなどを心に焼き付け、
しょうがない絵にしておく。

それに触れた方が、自身の心の中になにを見つけるのか?

その部分では思い切って人間を信じてやってゆこうと思います。

思うに「察する」という能力は、
失敗と喪失の繰り返しの中で手にするものじゃないかなと。

ただ、今はひとつの失敗でその人の全てが否定されてしまったり、
喪失を短絡的に絶望に結びつけたり、
そんな発想で人が息苦しさを感じている社会なんだろうなと。

ひとつの失敗を受け止め次を発想出来る社会。

「とうだい」は荒れ狂った海でもがく船に
「おーい おーい あらしにまけるな」
「とうだいは ここに いるぞ」と呼びかけます。

未来とか復興とか、
そんなものであればと願う70回目の11日です。

69ヶ月め

2016 年 12 月 11 日 日曜日

今日は2011年3月11日から2102日め
5年9ヶ月
69回目の11日です。

11月最後の週末を使い福島から宮城と巡ってきました。

ある雑誌の「3・11特集」の取材。
ボクの視線から見えるもの、出合ったこと、感じたこと、
言葉に編んでいただくとのこと。

編集長や担当編集者と何度もディスカッションを重ね、
もちろんボクがなにをしたところで、
震災からの復興の役に立つようなことは出来ないことを確認の上、
今なんとか手の届くところまで歩いてみようとなりました。

50数年ぶりに11月に小雪の舞った東京から福島県いわきの塩屋埼へ。

今年の8月に見た灯台の風景とはまた別の、
この季節ならではの光に溢れた姿。

震災後なんども足を運んでいますが、
あらためて「ボクは東北のことを何も知らないでいる」と実感。


何度も絵にしてきた豊間のビーチも、
襟を正し「はじめまして」とご挨拶したくなるほどの美しい光に包まれていました。

海から陸に視線を振ると、かさ上げ工事はさらに進み、
8月に歩いたばかりの道を間違え、ぬかるみに足をとられ、
高速バスでの移動の時間を逃しました。

それでも、
あらためてこの場所の美しさに出会えたことは、
この場所に暮らしてきた人たちの日々を想像することにつながり、
それは自分が描く絵に鮮やかに反映するだけでなく、
ボクの日々のあり方をより豊かにするものだと思えました。

そんなわけで、ちょっと遠回りになったけど福島市へ。

福島市で1ヶ月半前に開業した食堂「ヒトト」へ。
以前 SHOZO 04storeで働いていた大橋祐香さんに会いにゆきました。

東京吉祥寺で美味しいマクロビオテックの食堂として支持された「ヒトト」

店主の奥津さんの取り組みは、自然と震災後の福島での人の繋がりを生み、
福島での豊かな地域コミュニティの創造を目指す人たちから乞われる形で、
今回の出店につながった店です。

大橋さんも「ふるさと福島のためになにかやりたい」と願い、
このコミュニティの信頼おける先輩方からの紹介で、
この店を切り盛りすることになったそうです。

SHOZOでの彼女の仕事っぷりを知るボクは、
彼女の福島でのチャレンジに出会いたくて足を運ぶとともに、
彼女の視線から「福島の今」を知るきっかけを得る。

仕事=信頼

そんな理想を追いかけてみたら、
福島の「ヒトト」にたどり着いたということでもあります。


店主の奥津さんも、現在お住まいの長崎県雲仙から来ていて再会。

わずかの時間でしたが、
今ボクたちはどんな価値観を持って日々を暮らして行ったら良いのか、
深い話を、実に晴れ晴れとした気分で交換することができました。

福島は今でも原発の影響下にあり、
食の安全ということではみなさん特に気を使いながらも、
信頼おける生産者を見極め、その上でさらなる信頼の関係を構築し、
なにより美味しく元気になるものをこさえるということを目標に、
まずは開店から1ヶ月半、突っ走ってきたんだろうね〜、、

いや、まだまだ1ヶ月半。

「ヒトト」が福島の街で末長く愛される場所になりますよう、
ボクもイタズラに持ち上げることなく、ゆっくりおつきあいしてゆけたらだな。

なんだけど、
やっぱここで食べたメシ、
東京に帰ってジワ〜っとその旨さを思い出しちゃうんだよね。。

ほんと、また来るわ!

大橋さんにはちょっと街の案内をしてもらい、
大橋さんやヒトトをめぐる福島の豊かな人の関係の一端に触れさせてもらって、
しかし、
今は出会いの喜びを噛み締め、
焦ることなく信頼の関係を築いてゆけたらだ。

っと、
みんな深夜まで明日の仕込みだよね。

ひとつの場所を守ってゆく大変さ、
察するしかないのだけど、
お互いそれぞれの場所でベストを尽くし、また会おう。

なんだろ、
10年ちょっと前に福岡の街で触れた人の繋がりの豊かさ、
それと同質以上のものを、今は福島の街に感じているボクです。


明けて早朝、福島の街をちょっとランニング。
信夫山の中腹あたりまで走ってみたら、
そこは今でも除染中であったり、空間線量を示す立て看板があったり。

今回巡った福島でも宮城でも、
地元の新聞には空間線量を示すグラフが掲載されていて、

宮城は都内の線量と変わらずって感じだけど、
福島は福島第1原発を中心に、やはり未だ高い線量なんだけど、

ただ、東京ではそういったものが可視化出来なくなっている分、
自分が3月11日以降の世界の中の「どこ」に立っているか明快に分かるし、

やはり、ここで奮闘している1人ひとりとの信頼を確認してゆくとで、
「FUKUSHIMA」という観念とは別の、
福島県、会津と中通りと浜通り、会津若松市や福島市やいわき市、「ヒトト」や「豊間」
それぞれの魅力に出会い、無力ではあるけれど、気持ちを寄り添えてゆけたらと思いました。

福島での時があまりにも豊かなものだったので、
よーし、無理してでももっと人に会おうと、
仙台経由で東塩釜へ。

東塩釜の越の浦の「千賀の浦市場」の共栄丸さんを尋ねました。

過去に共栄丸の長女の水間さわこさんが送ってくれた手紙は、
震災からの苦労を感じさせられる以上に、

被災者はもちろんもともと「被災者」という名前の人ではなく、
ささやかではあっても掛け替えの無い日々を送り、
しかし震災があって、
ただそこでなにを失ったかは極私的なことであり、
「名を持つ被災したひとり」であるんだってこと、
ほんと当たり前なんだけど、気づかせてくれました。

そして、あらためてうかがった、
水間さんのアイデアでもって、
この土地を万葉集にも詠まれた名前「千賀の浦(ちがのうら)」と呼ぶことにしたこと、

震災で失ったものはあるけれど、
震災があったからこそ芽生えたその土地に暮らすアイデンティティを
ポジティブに感じられたこと、

やはりわずかな時間だったけど、
編集者に水間さんを紹介できてよかったです。

共栄丸さんは緩やかに代替わり中のようで、
これまでのワカメや昆布、牡蠣の養殖に加え、
タコやワタリガニなど、
その季節ならではの千賀の浦の幸にトライしてるようで、

すんません、、
相変わらず色々とご馳走になってしまいまして、
美味しかったっす!
また来ます。

共栄丸さんからJR松島駅まで移動、
東北本線を乗り継いで一ノ関駅まで。

東北の懐の深さを感じる旅です。

さらにドラゴンレール大船渡線で気仙沼。

福島の沿岸部から内陸、宮城の沿岸部から内陸、さらに沿岸部と、
途中郡山から福島まで13分間だけ新幹線を使っただけで、
在来線とバスを使っての旅は、目にも心にも優しい時間。

ただ、この数日前に震度5の地震と共に津波警報も出され、
行く先々で出会う人たちはみな恐怖と共に「あの日」を思い出したようで、
今年の夏に東北を巡った時以上に、
あらためてそれぞれの「3・11」を緊迫感を持って語ってくれた印象でした。

唐桑までのタクシーの運転手のおじさんも、
その軽やかな語り口調とは裏腹に、
仮説暮らしの大変さを言葉にしてくれて、
それ以上に、大切な人を失ってしまわれた方への思い、
というか、ご自身の無力感として語ってくださり、

5年9ヶ月めの今もすべては渦中にあり、
ボクたちは想像力を失わぬかぎり
無力ではあるけれど、
それに寄り添う生き方を選べるんだって思いました。

夜は唐桑のユース「リアス」に宿泊。

震災後関西から唐桑に住み着いた
今や唐桑の重要人物さいちゃんの「半島料理」を肴に、
呑んだなあ〜。。

ほんと、ここでの下らない話がサイコーに楽しい!

「震災」「被災」「復興」

どれも1人ひとりの日々があるからこその言葉。

その言葉の中にボクの目の前にいる人は生きているか?

美味しい果物も採れる唐桑にあって、
桑の実でこさえたジャムの素朴な甘さがうれしくてね。

遠洋漁業で沸いた土地も、これから確実に社会構造が変わってくるのだけれど、
こんなジャムの味わいの中にも未来を感じられたボクです。

明けて唐桑ランニングフィールドワーク。

晩秋の唐桑、美しいです。

通りや家々の庭や軒は花で彩られて、
ここに生きて来た人たちに心の余裕と豊かさを感じます。

山間の集落から急激に下る道の先には豊饒の海。

道の途中、海抜30mあたりでも「さらに上へ」の津波避難の指示。

あらためて、
豊かさとは生死の境目から得るもので、
万全の注意を持って取り組むべきものだが、
悪戯に恐るものではないんだと思いました。

そういう実感と「オリンピックによる復興」という言葉に
整合性を感じられぬモヤモヤ感を抱えたまま下ってきた坂道を駆け上ってみたら、
いや〜、大変、大変、、
いざという時お年寄りがこの坂を登るのって、
大変だよな〜〜、、

巨大防潮堤は「復興」のわかりやすいアイコンになるだろうけど、
より確実に命を守る手段「高い場所に逃げろ」

先日の震度5の地震でもかなりの避難渋滞が起きたそうで、

ならばお金も人の知恵も使うべき部分、
オリンピックのフワフワした空気に思考停止になることなく、
考え続けて行かなくちゃならなんだ、
被災地と呼ばれる場所も、
そうじゃないと思っている場所で暮らす人も。

にしても、
普段使わぬ筋肉ずいぶん使った、、

で、午後からはプランタンへ。
この場所で2年ぶりの絵のワークショップ

2年前に紹介されたこの店。

店主一家の小山さんが震災前に営んでいた店が津波に流され、
しかし、地元の方々からの信頼のもと、
この民家の利用を相談され、いろいろ悩んだけど、
今だからこそ出来ることをやってみようと始めたってこと、

知り合って2年目にして、
もっともっと真摯な言葉で編集者に語っていたのを
そばで聞いて知りました。

それでもボクは出合った時と変わらず、
このあっけらかんと温かな空間で思いっきり甘えさせてもらうだけ。

それは小山さん一家の「どうぞそうしてくれ」という言葉が、
空間のあらゆる場所から聞こえてくるからなんだよね。

もちろん「察する」ということはあるのだけど、
だからって何が出来るってものでもなく、
しょうがない、ボクはボクの積み重ねてきたものをぶつけてゆくしかないねって、
みんなで絵を描きました。


参加者の中にはもうじき90歳っていうかわい子ちゃんもおられて、
さーーて、どうしたものか、と思ったりもしたのだけど、

そこはそれ、
唐桑を彩る花々を育ててきた人たちです。

うまいこと表現の蓋を開けることが出来たら、
中には美しい色彩しか詰まってないのです。


お孫さんにプレゼントする向日葵の花の絵、
見事でした!

ほんとね、
1人ひとりの中の「楽し色」はもちろん、
「悲し色」も否定しようもなく美しい。

それが楽しい語らいの中で解放されていった時間。
思いっきりボクがトクをした。

そして、
そんな色と色がからまり合い重なってこそ生まれる未来。

「救い」というものは、
自分では心のどの部分に働くのかも、
どこからやってくるのかも分からないでいるのだけれど、
たとえば『30年ぶりに出会うちょっとした一言』なんてものに、
ささやかな救いを得ることもあり、
実はそんなささやかさの中に生きる本質はあるんじゃないかと。

晩秋色に染まった唐桑はボクの心の深い部分に働きかけ、
色んなことを考えさせるきっかけを与えてくれました。

うん、
また会いにきます、小山さんご一家、プランタン、唐桑。

願わくば、
プランタンとヒトトが出会うようなことがあればいいな。

それぞれの食のあり方やホスピタリティーなど、
東京とか経由しない確かな価値観として、
未来を生きる糧になるんじゃないかな。


さて、
こんな極私的東北恋旅に付き合ってくださった編集Sさん。

旅の途中を通してともかく語り合ったのだけど、
それを編み直して読者に届けることも重要だけど、
Sさんが直接1人ひとりと向き合い語り合ったということに意味があるなと。

そこで手にした実感を身近な1人ひとりに自分の言葉で手渡してゆく、
そんなことのきっかけになったことが嬉しいです。

その程度のことなので、
ボクを通してなにかを作っても、
それは一般受けして売れるものでは無いので恐縮に思うばかりで、

しょうがねえ、10年、20年、30年て時間をかけて、
孤独に地道に続けてくしかねえな。。

なんてことを夢想していると、
福島からリンゴがとどいた。

大橋さんが信頼を寄せる”あんざい果樹園”のかわい子ちゃんたち。

その味わいが大橋さんのイメージとぴったり重なって、
なるほどね〜って美味しくいただきました。

68ヶ月め

2016 年 11 月 11 日 金曜日

%e8%b1%8a%e9%96%932016_%e3%83%88%e3%83%aa%e3%83%9f%e3%83%b3%e3%82%b0e72
今日は2011年3月11日から2072日め
5年8ヶ月
68回目の11日です。

11月11日の今日は
「ひとり」「ひとり」「ひとり」「ひとり」ということを
あらためて考えています。

東京オリンピックにまつわる醜聞とも聞こえる報道がなされる中、
「被災地」や「復興」という言葉がヒラヒラと舞っているように感じます。

そこには「被災者」という言葉も含まれるのだけれど、
どうにも「ひとり」が見えてきません。

ボクの知るあの愛しい人たちはそこに含まれているのだろうか?

もしくは、
ボクは「被災地」という場所より、
福島県いわき市「豊間」だったり
宮城県気仙沼市唐桑町「鮪立」だったり
岩手県宮古市「鍬ヶ崎」といった名前の土地を愛し、
そこに暮らす「ひとり」を想像し生きてるという
TOKYO2020との寂しい齟齬。

アメリカという国は大統領選挙で
社会の分断を容認したような結果に至りましたが、

日本も見るべきものを見ないようにしていると、
いつかそうなってしまうんじゃないかという恐れを感じる今、

そうならないように、
あらためて「ひとり」の存在を見つけてゆこうと考えています。

今年は多くの方からの希望に応え、
ワークショップの現場を創ってきました。
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その規模はまちまちですが、
多くの場合でボクは「〇〇実行委員会」「〇〇プロジェクト」「〇〇事業団」
「〇〇の会」などの団体やグループと関わることになります。

ただ、そんな中にあっても、出会うべきは「ひとり」です。

そもそもボクひとりのサイズでは
グループの大きさが手に余るってこともあるのですが、

大切に思うのは、
どんな「ひとり」の意思や希望が
そのグループの情熱の発火点になっているのかを知ること。

そんな「ひとり」と密なコミュニケーションを持ち、
「ひとり」のサイズからグループのサイズを見極め、
その先で出会うであろう1人ひとりを想像し、
自分の手をどこまで振りきれるのか、その範囲を判断し、
ワークショップで向き合う子どもでもオトナでも、
1人ひとりと思いっきりコミュニケートするための足場を確保します。

めんどくさいヤツだと思われてるはずですが、
特に子どもは簡単にウソを見破っちゃいますからね〜!
そこはやっぱ手を抜けないのです。

みんなと「せーの」で絵を描くワークショップでも、
1人ひとりとのコミュニケーション。

そうして気持ちの良い時が創れた後、
あらためて1人ひとりと交わす会話は
より風通しの良いものへと変わってくれます。
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そこで耳にする「疲れた」や「金がない」という言葉は、
より実態を持ったものとしてボクの生活実感と共鳴します。

ボクが漠然と思う「コンクリートによる行き過ぎた護岸工事はどうなんだろう?」という問いに、
「実際に動き出し、そこで生計を立てている人がいるからね、そこを考えないと」と答えてくれたのは、
今年の夏に「Tシャツ海岸」というアート企画の中心人物、小野寺さんでした。

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自分が生きてきた海の美しい景観が損なわれてしまうことは残念なことだ。
そんな「本音」が明快にあっても、
そこには生活実感という「本音」もべったり張り付いてくる。

きっと、こういったことはなにか事が起こるよりずっと以前の段階で、
生きる価値観の全てを見直すくらいのことをやり、
備えなけれならないことなんだと思っている今です。

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9月にボクを熊本での子どもたちのワークショップに招いてくださった伊藤さんは、
とても立派な公共団体さんの肩書きでアプローチされてきたので、
初めはボクがどんな役割として関わっていったら良いのか確認するところから、
密なコミュニケーションをさせてもらいました。

ところが、どうやっても発想が伊藤さんという「ひとり」に行き着く。

そこで、会話を一対一の状態で進めてみると、
伊藤さんの背景にいるであろう人や子どもの顔が見えてきたような。

で、実際にお会いし話をしてみると、
その企画は団体の名前で主催しているけれど、
そのほとんど全てが伊藤さん個人の情熱で動いているものだということ。

「震災支援」という活動でも、
ひとつのグループの中では考えも様々で、
実行に移す難しさもうかがいました。

ただボクは伊藤さんという「ひとり」を知ることで、
ボクがひとりで子どもたちに向き合う裏付けを得、

このワークショップでは
「ひとり」の『絵の描けない男の子』が
最後には1人で黙々と絵を描き続ける姿に出会うことが出来ました。

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先日は富山へ。
エコツアーの実践から地域作りにアプローチしはじめた安田さんのお誘いで、
ごく小さなワークショップ 2DAYS
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初日にオトナに向けたものを開催し、
まずはオトナが恐れず表現出来るってことを確認し、
次の日に子ども達と森を歩いたり絵を描いたり。

自然の中から豊かな色彩を見つけてくれた富山の子ども達はもちろん、
ボクより先輩世代の富山に暮らす人たちは、
普段目にしているものがよほど美しいものなんでしょう。

「絵の具使うの、何十年ぶりだろ」なんて言いながらも、
表現することを押さえつける殻を1つひとつ剥がす作業を重ねた先で、
実に美しい色彩の絵を描いてくれました。

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ボクたちがつい口にしてしまう「きれいな色」
それは「赤、青、黄色、緑、ピンク」のよう言われ方しちゃうはずですが、
富山の先輩達の色彩は、
たとえば赤とピンクの間から名もなき色彩を見つけ出し
「ある日の夕暮れ時の自分色」と名付けてしまう能力があるようです。

この日は大阪からの参加者もいましたが、
その色彩感覚の差がそのまま地域の違いとして表れた夜です。
(大阪の「どうにもならない灰色」なんてのも魅力的で仕方ないのですがね!)

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そうやって表現を開いた先で、
ほんと沢山のことを語りました。

ある方は抱えてきた痛みを語り。

ある方は「金に変えられぬ」豊かな暮らしの意味を語り。

みんなどうしようもなく問題を抱えてはいるけれど、
それでも生きる術を富山という土地が与えてくれてるんだと思いました。

そんな生活の1つひとつを、
思いっきり笑い飛ばしは語る熊本の人と、
グッと呑み込んだ上でユーモアに変える東北の人と、
みんなで富山に集いそれぞれの今を語ることで、
それぞれの土地の魅力を再発見すると共に、
さらに豊かな生き方を探るきっかけにもなるんじゃないかと思い、

さらには、日本の本当の意味での豊かな未来なんてものが、
こんな語らいから生まれていってくれたらなあと思い願った時間。

こんなことが安田さんの「次」を創造する力にもなってゆきますね!

富山での時と平行し、
東京銀座の森岡書店での「とうだい」原画展が最終日を迎えました。
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森岡さんとのお付き合いも、
唐桑で、熊本で、富山での人との接し方を変わる事なく、
それは森岡さんが絶えず「ひとり」をさらして下さっているからこそだなと。

森岡書店での6日間では1冊の絵本「とうだい」が売られ、

その他絵が2点とポストカードが少なからず売れ、
その売り上げは森岡さんとボクとで折半になりました。

そのお金の真っ当な価値を思うと、
それは唐桑で、熊本で、富山で動いたお金、
ワークショップの経費だったり、みんなで頂いた食事だったり、
工面してくださった交通費だったりの真っ当さと同質のもので、

「ひとり」と「ひとり」
顔の見える関係の人との信頼関係を現すものだと
思うことが出来ています。

そうして東京銀座は唐桑とも熊本とも富山とも
心の中で地続きになるし、

ボクはそこを自分の足で歩き、
その先で出会う人と豊かさの意味を確認してゆこうと思います。

そんなコミュニケーションのきっかけとなるよう、
もっと美しい絵を描かなくちゃです。