‘毎月11日の備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

98ヶ月め

2019 年 5 月 11 日 土曜日

今日は2011年3月11日から2,983日
426週と1日
8年2ヶ月
98回めの11日です。

令和になりました。

平成は多くの情報がデジタル圧縮され、人はその情報にアクセスすることで、時間や空間を超え生きる術を得ました。

アナログのデーターのカタチは、乱暴に言ってしまえば円や球です。

膨大なデーターを人に届けようとし、アナログデーターを積み重ねてみると、そこにはどうしても隙間が出来てしまいます。

データーを運ぶ道幅は決まっていて、慢性的に渋滞しています。
そんなところをカサがデカイ割にスカスカの荷物を運ぶことは、効率的な行為とは言えません。

デジタルの技術は、これも乱暴に言ってしまえば、丸い形状のものを四角く削り、隙間なくコンパクトに積み重ねやすくすることです。

アナログレコードの音が丸くて耳に優しいのは、たくさんの隙間を持った球状に広がる音だからです。

その隙間は人それぞれの想像の余地であって、人は音楽を聴きながら(受け取りながら)も脳みそは想像を続ける。
その心地よい疲れが「気持ち良い」のだろうね〜。

しかし、そのデーターを運ぶためには、重い塩化ビニールの円盤に溝を刻んで、大してデーター量を書き込めないクセにかさ張る紙でジャケットを作らねばなりません。
そうして記録出来る音楽はわずか45分ほど。
しかもそれを再生するには、レコードよりさらにかさ張る機械に乗せなければなりません。

こんな非効率なことは無いわけです。

誰でもアクセスし易くし綺麗に積み重ね、効率よく取り出されるようにしておく。
amazonの配送センターみたいなのが理想でしょう。

これから情報はAIに集約され、さらに効率的に活用される時代になるのでしょう。

が、しかし、この丸っこくてスカスカのものがどうにも人を救うものだったりするんだよなぁ〜〜

時代超えの夜にそんなことを考えていたら、イラストレーターの仕事って益々面白くなってゆくんじゃないかってね。

確かな肉体を生かし作られるもの。その価値を磨き高めてゆくことで、今までに無かった絵の活躍する現場なんて創れるんじゃないかと、スカスカの脳みそでワクワク考えています。

その最初の一歩として描いてみたのは、相変わらずその辺に咲いている花なんだが、
そこには今まで出会ってきた人との、ピクセルでは表せない丸っとした記憶が塗り込められているはずです。

こうしたことを、今もこうやってデジタルな現場で語っているわけですが、
だからこそ大切にしなければならないこと、日々繰り返し考え、行動に移してゆこうと思います。

97ヶ月め

2019 年 4 月 11 日 木曜日


今日は2011年3月11日から2,953日
421週と6日
8年1ヶ月
97回めの11日です。

先日は岩手県宮古市へ。
2年前の3月にもお世話になった
岩手県太平洋沿岸部のすべての町から失われた映画館を復活させることで、
地域や遠方の土地とのコミュニケーションを生むプロジェクト”シネマ・デ・アエル”で、
子どもたちと絵を描いたり、展覧会を開催したり、映画上映後のディスカッションに登壇したり。

何より太平洋の真珠のような町宮古と、そこで出会った人たちとの再会が幸せな時間でした。


また、今回の上映作んのひとつ、
福島県双葉町に伝わる”盆唄”を震災後復活させてゆくドキュメントにして、
個人的にはミュージックエンターテーメントとしてとても楽しめた「盆唄」の上映後、
監督である中江裕司監督と言葉を交わせたことは、大きな財産になりました。

ボクがとても大切にしている映画「ナビイの恋」などを通して、
沖縄の人々の深い情や朗らかに生きる知恵を伝え続けてくれた中原さん。

今双葉町を描くことは、原発事故と向き合わざるを得ないことでもありますが、
中原さんはしっかり「ひとり」を見続け、ひとりから放たれる表現に耳を澄ませることで、
ひとりの背景に広がるリアルを確実に、しかし軽やかに描きとったはずです。

双葉町に広がるリアルは、ただ人前に放り出されるので無く、
最後は盆唄にしっかり抱きしめられる映画です。

失われたものに対して打ち鳴らされる盆唄の美しさ!

あの日から8年の春にこの映画に出会えてよかった。

あの日から8年の宮古。
ボクにとっては2年ぶりの宮古は、
変化の中にありました。

「盆唄」に出会った宮古の方々は、
この映画をエンターテーメントと捉える以前で、
福島の原発事故に対する深い憤りと宮古の現状を掛け合わせて受け止めたようでした。

そうしたことに監督である中原さんは、
ご本人としてエンターテーメントとして見てもらいたい「盆唄」を、
「宮古に来てやっとわかった。自分は双葉町の亡くなられた方々に、この映画を作らされたのだと思う」
と発言されていました。

宮古の漁港をグルッと囲むように建設された10mほどの高さの防潮堤には、
「海を失いたくない」という町のみなさんの声に答え、
厚いアクリル板がはめ込まれた小窓がいくつも作り込まれていました。

その制作費、ひとつ200万円ほどとうかがったのだけど、
これは都市伝説だったりするのか?
それとも本当に200万円?

ボクが何度も描いてきた鍬ヶ崎の浜の風景も失われています。

この感覚は、初めて被災の現場に立った時と似て、
初めて出会う風景に心の動きが止まる感じでした。

なので、それに対してボクが何か口にするのでは無く、
ここに暮らす人たちの言葉に耳を澄ませてゆかねばならないと思いました。

津波被害のあった場所では、未来の街づくりの実験のようなことも行われている印象で、
「復興」というものが、そこに暮らす1人ひとりにとってどういうものになるのか、
東京で暮らすボクは、引き続き宮古を訪ね、確認してゆき、
もし必要とされるのであれば、街に生活に必要とする彩りを与える仕事などしたいです。


震災直後から仮設で営業を再開した酒屋さんは、
前回は来た時は海側に移転していて、
今回は元あった場所に立派に再建されていました。

そんな志の先で、どんな人間の物語が育ってゆくのか。
そんな志がどんな美しさを街に与えてゆくのか。

「3・11」という記号を消費してしまうで無く、
「平成」の終わりにボクの勝手でリセットしまうでも無く、
ましてや「復興オリンピック・パラリンピック」などというワードを一人歩きさせることもせず、
自分の足の裏の感覚を頼りに、1人ひとりに出会ってゆかなくちゃだな〜

ワークショップに参加してくれた宮古の子どもたち、
とても豊かな色彩を持っています。

でも前回同様に絵に向かう最初の一歩がとても慎重。

それを前回は東北ならではシャイな資質と思ってしまったのだけど、
2年後の今は、それが全国的な傾向であることを、
この2年間に出会ったきた子どもたちの様子から感じています。

大人が過度に人に気を使い生きている。
もしくは、表現やコミュニケーションを失敗することを過度に恐れる。

震災以降、そんな傾向が深まったんじゃないかと。

子どもたちにはとても豊かなものを与えていながらも、
表現の最初の一歩めのところではつい
「それはやっちゃダメ」という言葉が優先されてしまう。

そういう言葉が使われる背景には、
日本人の「優しさ」という資質があるはずなので、
ボクがわざわざ矯正を促すべきでは無く、

ただ、ボクと子どもたちとの時間の中で、
子どもたちに埋まっている豊かな力を確認してもらえたらいいな〜

ちっちゃいうちに吹っ切れたことを1度でも経験出来ていたら、
いざという時の力になるはずだと思うのです。

などと、ある意味2年前に宮古で感じたことは、
日本の一番最先端で起きていたことだったんだって思いました。

良いものにたくさん出会えた宮古。

旅の最後に「人生フルーツ」なんて映画に出会えて、
その日がちょうど昨年亡くなった父の命日だったりして、

シネマ・デ・アエルの人の輪は、
やはり「死ぬまで会える」絆をじわり構築するものなんだよな〜と。

みんな、焦らず良いもの積み重ねてゆきましょう!なんて願い、
壁面に大量の絵を残して帰路につきました。

会期を延長していただいたボクの展覧会を守ってくれたのは、
この企画がご縁で結婚してお子さんを設けた方。

赤ちゃんのオムツ取り替えながらギャラリー番をします!って。

東京での展覧会みたくワッと人が足を運んでくれるはずは無く、
しかし、「効率」ってことでは語れない福をボクの絵に、そしてボクに与えてくれた宮古です。

30年くらい絵を描いて生活してきた中、
密かに求めていた絵のある風景に出会えたはずです。

ありがとう、宮古!
岩手、東日本
PEACE!!

96ヶ月め

2019 年 3 月 11 日 月曜日


今日は2011年3月11日から2,922日
417週3日
8年
96回めの11日です。

3月2日から10日まで塩竈市立杉村惇美術館で開催の展覧会「東日本」
無事に終えることが出来ました。

東北ではまったく無名のボクですが、
8日間の会期をと通し、口コミでのお客様が増えてくれたのは、
震災の次の年に東京で展覧会を開催した時に似ていました。

1枚の絵を間に生まれる会話を楽しんでくださる多くの方に出会えたこと、
あれから8年という時の流れを感じることが出来ました。

そして、あらためて、
「それどころでは無い」という立場に置かれたままの人を想像したのも、
美術館という装置ならではなんだと思いました。

また、長崎から、愛媛から、大阪から、東京から、福島からと、
わざわざ遠方より足を運んでくださった方があったことは、
杉村惇美術館という美しい場所の求心力でもあったなと。

しかも、ただ美術館という箱があるだけでは無く、
企画運営する方々の魅力が細部に宿っているからこその、
美術館の求心力であったと思います。

熊本で、福島で、美術館関係者から「塩釜には彼女がいるから」と伺っていた、
ビルド・フルーガスの高田彩さんには、
噂通りの見事なオーガナイズを頂きました。

杉村惇美術館の館長さんである岩澤さんは、
お客様にボクの展示をまるで自分の展覧会のように語ってくださるので、
ギャラリーが終始朗らかな空気に包まれていました。

他の学芸員さんも実に丁寧な現場創りに尽力されていて、
いい加減になりがちなボクの展覧会を凛としたものに仕立て上げてくれ。

併設されたカフェのスタッフさんにしても、
美術館のカフェとしての美意識を貫く所作がとても綺麗でね〜。

お客様として足を運んでくださった皆さんの「来てよかった〜」は、
そんな皆さんの尽力の賜物に間違いありません。

例えば「被災地の復興」ということを考えてみても、
こんな方々の奮闘が美意識の現場を育ててゆく姿も、
これからの復興に欠かせないものだと思いました。

しかし、こんな現場がひとつあるだけで、
ずいぶん豊かさを感じるものです。

宮城県の他のエリアから来た人が、
塩竈にこの美術館が出来たことを羨ましく語っていましたが、
実際ボクもこの場所で多種多様な方と会話が出来たなあと。

美しい箱とそこを運営する人の尽力で、
地域の風景がちょっと豊かに見えること。

そこに自分も絵で関われたこと、うれしく思います。

会期中2度開催したワークショップも、
ボクの思惑以上に意義深いものになったはずです。

集まってくださったみなさんの、
想像以上のクリエイティビティに出会えた喜び。

それ以上に、
みんなで絵を描いたからこそ生まれた「はじめまして」同士のオープンな会話。

そして、美術館の、普段なら静寂に包まれているはずのギャラリーに響いた、
元気な子どもたちの声!

子どもたちの持っている力の鮮やかさに、
パパママたちの歓声が上がる。

アートとか芸術とか語ってかしこまってしまわず、
今を生きる人の必要に答える美術館のあり方。

新鮮だなあ〜〜!

もちろん、これで震災前の塩竈に戻ったわけでは無く、
多くはこれからだろうし、失われたものを取り返せるわけでもなく。

それでも、震災の経験した土地が手にした「人の必然に当たり前に答えるマインド」は、
日本のみならず世界でも最前線の感性によって形成されているように思いました。

*この感じ、2月の福島県昭和村でも感じたこと。
http://www.yakuin-records.com/amigos/?p=13989

あらためて、
ボクがなぜ塩竈市立杉村惇美術館で展覧会を開いたかを記しておきます。

2011年3月11日以降始めた震災被災地を中心としたフィールドワーク。

その10回目くらいに当たる2013年1月末から2月頭にかけてのフィールドワークで、
岩手県の宮古や宮城県の気仙沼を巡った後、
一関のホテルで見ていたテレビで、塩竈の港の施設が再開されたみたいなニュースをやっていて、
そういえば東京で塩竈を報道されることは少ないなと。

初めて訪れた塩竈は、確かに津波の爪痕は残っていて、
しかし以前の街の姿を知らぬボクはただウロウロするばかり。

そうしてたどり着いた塩竈港では、
カモメ(うみねこ?)にかっぱえびせんを投げ与えている女の子に出会ったりしてね。

港には復興市場なる仮説の海産物の販売所があって、
隅っこのプレハブの中で震災被害の写真展をやっていて、
そこで海産物の発送の仕分けをやっていた女性に「ちょっと見ていいですか〜?」って聞いたら、
「どーぞ!見て見て!!」ってすげー元気に返されて。

港町の女、やっぱ元気だね〜なんて思っていると、
「ちょっとこっち来て!」って、ご家族が営まれている海産物の直売所に呼ばれて、
「牡蠣食べて!」「わかめ食べて!」「どう?おいしいでしょ!」って。

いやいや、被災地の甘い汁吸いすぎだろうなんて言ったら、
「いいの、いいの!」「これ作ってるの私の旦那なの」
「すごーくいい男なんだから!」なんてご主人自慢。

『被災地に行ったら、逆に被災者に元気もらっちゃいました』
こんな話を良く聞くけど、それは言っちゃお終いだろうなんて考えていたボクが、
しっかり元気が湧いてきちゃった「ひとり」との出会い。

ボクは絵を描いていることを告げ、
持っていたカモメやシロツメクサを描いたポストカードを渡して東京に帰ると、
しばらくして彼女からの手紙。

そこに書かれた、
震災の直後に海から見上げた空に見たカモメに、生きてる実感を得たこと。
保育士としての二十歳の初出勤の朝に、足元にシロツメクサを見て、不安の気持ちが和らいだこと。
ご主人のことが大好きなこと、、
また塩釜に来るのであれば、ご主人が働く海を見てもらいたいこと。
塩竈神社の塩竈桜もぜひ見て、いつか描いてもらいたいことなどなどが、
小気味好くも美しい文体で描かれていました。

「ああ、出会ってしまったなあ〜!」

ボクは塩竈桜の咲く季節を調べ、
5月5日に再び塩竈へ。

彼女の働く海の上を羽ばたくカモメを描き、
2度目の開催となった「東日本」という展覧会のメインビジュアルにして、
彼女に送りました。

2014年1月の東京青山での展覧会の初日の朝、
彼女が塩竈から、保冷ボックス一杯の牡蠣やワカメを抱えてやってきて、
オープンした展覧会を15分くらい見たら、「来れてよかった」って、
日帰りとも言えぬトンボ帰りで塩竈に帰っていった。。

そうしてボクは震災後初めて被災地と呼ばれる土地に友を得た。

そのカモメの絵は、展覧会に多くのお客様を呼んでくれ、
主に西日本での巡回展を呼び寄せ、
「とうだい」という絵本の作画の仕事に結びつき、
「赤崎水曜日郵便局」の書籍化の際の装丁画の仕事にも結びつき、
(偶然だけど、筆まめな彼女の水曜日の手紙も掲載されていた!)
水曜日郵便局のお膝元、熊本県津奈木町の”つなぎ美術館”での展覧会開催に至る。
(最初に描いたカモメの絵が大阪の方の元に羽ばたいていったので、あらたに描き下ろした)

そこでの水曜日の出会いは、
水曜日郵便局次の開催地、宮城県東松島の宮戸島を舞台とした
「鮫ヶ浦水曜日郵便局」にボクを引き込み、
水曜日の手紙をテーマとした絵本制作のオファーをもらう。

オリジナルのストーリーは作れるか?の問いに、
松島湾の南っ側の塩竈に、よく手紙をくれる人がいて、
その人をモチーフにストーリー作れるって、
「うーこのてがみ」というタイトルの絵本の制作を始めました。

その間、彼女は事あるごとに手紙を送ってくださり、
またご主人とのラブラブ話はさらに深まり、、

ボクと長崎の諫早のオレンジスパイスさんとで運営している”peaceてぬぐい”に添える手紙に、
『被災地の今を伝える手紙』として数度登場願ったり。

ボクもフラリ塩竈を訪れては、
彼女のご家族の営む海産物の直売所で、相変わらず美味しい思いをして、
復興市場から津波で流される以前の場所、越ノ浦に直売所が戻った際のお祝いに行ったり。
「暮しの手帖」の震災特集に登場もしてもらったなあ。

で、そんなお付き合いの中、
彼女が尋常ならざるくらい「人のために働く人」であることを知り、
家族の仕事を助けながら、さらに家計を助ける仕事に奮闘している姿に、
無茶はさせられないなあと、
東京の展覧会に駆けつけトンボ帰りをした意味なんかを噛み締めていて、、

が、2018年、震災から7年目の春に、
「そろそろ私がやりたいと思うことに集中してゆくんだ」って、
仕事を減らして、例えば大切に考えている
塩竈港の万葉の昔から伝わる呼び名「千賀の浦(ちがのうら)」を復活し、
地域ブランドに育ててゆくことなど、
ともかく愛する家族や地域の元気のためにやれることやってゆこうって。

ならばボクの描いたカモメの絵なんかも使ったらいいよ!なんて話をして、
でもその前に羽田空港で羽ばたかせるから、
そんなんをきっかけにしていってくれたらいいよ!なんてね。

そしたら「羽田空港ぜったいに見にゆくから!」って、、

無理して羽田来ること無いよ!
俺、塩竈で展覧会ひらいて、あのカモメの絵も連れてゆくからさ!なんて言えば、

「いや、展覧会は私が企画する」「いい場所見つかったから楽しみにしていて!」だって。

ボクはその間、震災後の活動がユニークだと、
あるテレビ番組の制作チームに取材されていて、
カメラがボクの方を向く度に、
違うんだよ、すごいのは彼女なんだよ!なんて思っていて。

結局この取材はテレビ局上の方の人の
「ボクと”被災者”との関係が分かりづらい」みたいな”分かりやすい”理由でお蔵入り、、

でもいいんだ、
被災者と付き合うのが目的じゃねーよ、、
彼女のような「ひとり」と出会い、その関係を大切に育てることが、
人に、地域に、どれだけの幸せを生むことか!
(ただ、ボク以外の人たちは番組を楽しみにしていたのだが、、)


2018年8月、「うーこのてがみ」の作画を始める。

うん確かに「うーこ」の動きは彼女の動きに似ているぞ!
彼女と出会った際、自分の店にボクを誘った時の軽快な足取りとか、まさにだなあ〜、
なんてニヤニヤしながら筆を進めている中、彼女の訃報が届く。

49歳

ボクはボクの勝手な歴史の中で、彼女のことを端折ってここに書いているけど、
彼女の家族や知り合いの喪失を肩代わりなどすることは出来るはずもなく、
ただ、彼女の家族の皆さんやお知り合いの皆さんと、もっと彼女の話をしたくてね、
いや、もうなんも知らないから、

どうやら彼女がボクの展覧会を考えてくれていたのと、
カモメの絵がご縁で知り合いになっていった美術館が一緒らしいってことで、
塩竈市立杉村惇美術館に100点以上の絵を送りつけ、
結果、
映像作品も含め90点の作品の人生最大展を8日間だけ開催した。

それは刻々と変化する塩竈の光とお会いする皆さんとの会話に溢れた、
とても美しい、
きっとボクがこれまでに創ってきたものの中で一番美しいものになったはず。

水間さわ子さんという「ひとり」に出会い、
ボクは震災後の混乱する気持ちのままカモメを見上げ、
その後を生きるための基準となるような絵を描き、
遅ればせながら塩竈に届けた。

すべてはこれからだ。

展覧会から明けて3月11日。
宮城県塩竈は雨。

この後雨脚はさらに強まり暴風雨化するとの予報に、
いくつかの予定をキャンセルし、東京に戻りました。

なにかあったらすぐ駆けつければいいね。
塩竈、心の距離はめちゃくちゃご近所になったしね。

2019
0311
PEACE!!

3/2~10塩竈市立杉村惇美術館で展覧会開催

2019 年 2 月 11 日 月曜日


あれから8年めの3月11日を前に個人的な必然のもと、
宮城県塩釜にある美しい美術館をお借りして展覧会を開催します。

東京から「わざわざ」足を運んで頂いても満足いただけるものにしてみます。
この季節の東北太平洋沿岸の空気に出会うついでにぜひ。
そんな願いも込めて準備を進めてまいります。

小池アミイゴ展覧会「東日本」
美しき人との出会いと風景や花の絵の展覧会。

2019年3月2日(土)~10日(日) *4日月曜日休館日
杉村惇美術館、市民ギャラリー1・2
10:00 ~ 17:00 最終日3月10日は~15:00まで

SHIOGAMA SUGIMURA JUN MUSEUM OF ART
〒985-0052 宮城県塩竈市本町8番1号
TEL: 022-362-2555
http://sugimurajun.shiomo.jp

=展示=
塩釜をはじめ東北太平洋沿岸、そして日本の各地を歩いて描いた風景や花の絵
羽田空港で小山薫堂氏と展開中の「旅する日本語」の原画
絵本「とうだい」や東松島の宮戸島を舞台とした絵本「うーこのてがみ」の原画
鉛筆で描いたスケッチによる映像作品

絵本「とうだい」や東松島が舞台となった絵本「うーこのてがみ」、絵葉書の販売

=イベント=
3月2日(土)だれでも絵が描けるワークショップ、大人編 @大講堂
だれにでも出来る表現で、絵やイラストレーションの楽しさに出会える時間。
「わたし絵が描けないから、」という人こそウエルカムです。
3月2日(土)14:00~ 2時間ほど
・参加費500円、画材等こちらで準備します。
・汚れてもよいオシャレでご参加ください。
申し込むフォーム> https://goo.gl/forms/HnN0Ek2B5pu3VZYw2

3月10日(土)だれでも絵が描けるワークショップ、親子編 @市民ギャラリー
表現の最初の一歩が幸せなものであるようにと、日本の各地で開催している絵の時間です。
絵本の読み語りなども交え、親子で楽しむアートのあり方をお持ち帰りいただけます。
3月10日(日)10時~ 1時間半ほど
・参加費500円、画材等こちらで準備します。
・年齢制限無し
・汚れてよいオシャレでご参加ください。
申し込むフォーム> https://goo.gl/forms/3ZI4tE5GO4NxxpCw1

2013年3月、ボクは一通の手紙を受け取りました。
松島湾で養殖漁を営むご一家の長女で、2月に塩釜港の復興市場で出会ったばかりの方からの手紙には、震災の直後、家族の仕事場である海から見上げた空にノホホンと飛んでいるカモメに、生きている実感を得たこと。初出勤の朝、ふと目にしたシロツメクサが不安な気持ちを和らげてくれたこと。養殖漁に尽力するご主人へのラブラブな思いや、ちょっと未来の夢などが、生き生きとした筆致で綴られていました。

そんなごく私的な物語と出会えたことで、ボクは「サン テン イチイチ」と呼ばれている悲劇の地に在っても、1人の大きさで見て感じることの尊さと、そこに美しさを見つけ描くことの意義に気づけたはずです。
そうして描いた塩釜の海の上を飛ぶカモメの絵は、多くの方の共感を得て、ボクをさらに次の場所へと導き、新たなる人との出会いと共に、絵を描く力を与え続けてくれるものになりました。

「絵にできることってなんだろう?」との自問はあれから8年の今も変わらず。しかし「絵にできることはこれからが本番」という実感は今こそ深まり、今回「約束の地」である塩釜での展覧会開催に思い当たりました。

この展覧会が、みなさんの穏やかなな語らいの場所となればいいなと願い、杉村惇美術館のギャラリースペースを気持ちの良い空間に仕上げて、お待ちしております。

95ヶ月め

2019 年 2 月 11 日 月曜日


今日は2011年3月11日から2,894日
413週3日
7年11ヶ月
95回めの11日です。

2月4日から7日までの4日間、
福島県奥会津の昭和村に滞在し、
公民館に置かれた学童保育(放課後クラブ)を利用する子どもたちと
ワークショップセッションを行いました。


折り重なるように連なる山間の地で、
山手線の内側ほどの広さを有する昭和村。

日本を、というか世界を代表する豪雪地帯で、
1927年、 昭和2年 野尻村・大芦村が合併、昭和村として誕生。

山を縫うように走る街道沿って集落が点在し、
人口は1.220名ほど。

人口密度は1平方キロに5.9名

村立昭和小学校のに児童数は28名。

そのうち放課後クラブの利用は
1年生から4年生までの10名前後。

放課後クラブには、まずは低学年がやって来て、
その1時間後くらいにお兄ちゃんお姉ちゃんちゃんたちが参加。

みんなそれぞれの個性を発揮しながらも、
兄弟のような関係性で放課後の時間を過ごしている印象。

支援員さんには4名の登録があって、
そのうちお2人がメインに活動。
子どもたちの宿題を見たり遊びの相手をしたりと
日々奮闘されています。

ざくっと紹介するとこんな現場。

いつものワーークショップのように、
みんな揃ったところで「せーの」で始めることが難しいなと、

この場所をボクのイラストレーションの仕事のアトリエとして、
そこにやって来た子どもたちが、プロの画材を使って絵を描いたりして遊ぶ。

そんな設定で進めてみることを思いつきました。

昭和村の特産物には”からむし”があります。

伝統的な織物、越後上布や小千谷縮の原材料として使用されている麻科の植物。
その本州唯一の生産が行われているのが昭和村で、
近年まで村に唯一の現金収入をもたらすものでもありました。

その伝統や技術が、村の人口減などにより後継者確保が難しくなってきた平成6年、
村役場は村外から後継者を募集。

10か月間村に滞在し、からむし栽培から織りまでの一連の作業を体験する、
“からむし織姫”のプロジェクトとして現在も行われていて、
これまでに70数名の方が”織姫”として参加、
その3分の1がその後も村に暮らし、
ボクが向き合う子どもたちも織姫さんのお子さんが少なからず混じっています。

人口分布が高齢者に偏った、
今の日本を象徴するような自治体の姿をしているけれど、

そこには”ものづくり”を大切に考える人がいて、
“ものづくり”の志を持った人が移り住んでくる。

そんな環境の中で生まれ育った子どもたち。

日々自然から多くを学ぶだろうし、

昭和村だからこそ身に付くデザイン感覚なんてものもあるだろう。

廃校となった小学校の古い校舎を遺し維持する。

そんなオトナたちのモノに対する矜持も、
彼らがしなやかに強く育つための力になるだろう。

地域のお年寄りから孫のように思われ育ち、
家族や兄弟のような関係で遊ぶ子どもたち。

そんな子どもたちが面白くないはずが無い。

さて、ボクはここでなにをすればいいだろうね?

気がつけば、放課後クラブを利用する子どものほとんどは、
東日本大震災発生前後に生まれなんだ。

ここ数年、子どもとのワークショップを通して感じてきた変化。
大人への気遣いをする子どもたちが増えてきたこと。

それは昭和村にも当てはまるんだろうか?

その辺焦ることなく1人ひとりを向き合ってゆきしかないなと、
まずは1人ひとりの顔を描くところはから始めてみました。

なるほど、なるほど、
みんな面白い!

シャイにしている子に限って、
繊細だけど、とてもシンプルで力強い表現をしたり。

噂を聞きつけて未就学の子どもが乱入してきたのも楽しい!

そして、
昭和の子どもたちは手を動かしながら良くしゃべる、しゃべる!

子どもたちが絵を描くことは、そのまんまコミュニケーションなんだってこと、
色んな現場で語ってきたボクだけど、
ここの子どもたちが絵を描くことは、そのまま会話であり、
それがワイルドだけどとてもスムースに行われているのが素晴らしく、
そこには自然と1人ひとりの役割が派生し、それをお互い尊重し、
そんなみんなで描いて生まれる絵には、自然と強固な構図が構築されている。

ボクはここで子どもたちになにか与えるというより、
子どもたちの持っている力を楽しんじゃえばいい。
きっとそういうことなんだろう、昭和村。

4日間、色んなことを試してみて、
ここで今語れることは一部でしか無いのだけど、
そんなこんなの発表会は2月21日に昭和村で。

22日にもう一度彼らとセッションを行い、この企画は終了。

しかし、これからも彼らの成長にお付き合いしてみたいな。
彼らがその資質を失わずオトナになれる世界創りこそ、
「復興」だし、より好き東北だったりするはず。

なんだろ、
冬の間雪に閉ざされる過疎の土地が、
世界にグッと突き出た岬のように思えるんだよね。

その先端から見渡す世界の面白さ。

ちょっと気持ちがある限り、
手を伸ばせば捕まえられる場所にある世界。

人を金で換算するグローバルでは無く、
グローバルをローカルの集積であると考える人にとって、
世界の出発点は必ず昭和村のような場所であるんだと思った。

あの日から間も無く8年と言われる冬に、
ボクは実に自分らしい場所に立つことが出来たと思い、

ここに導いてくださったみなさんや、
お力添えをくださるみなさんに感謝。

全てが終わったら、あらためて詳細レポート作りますね〜

あ、滞在中ボクMお良い絵が2点描けましたよ〜

昭和村生まれの絵が羽田空港を飾る。
楽しみだな〜