‘毎月11日の備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

100ヶ月め

2019 年 7 月 11 日 木曜日


今日は2011年3月11日から3,044日
434週6日
8年4ヶ月
100回めの11日です。

6月は宮城県塩釜へ。
利府聖光幼稚園で子どもたちとのワークショップ、
3月に展覧会でお世話になった杉村惇美術館で大人向けのワークショップ。


聖光幼稚園でのワークショップは、
杉村惇美術館での展覧会で知り合った山田みちえさんのグループ、
えぜるプロジェクトが主催で、共催はシオーモ絵本のなかまたち。

震災以降の塩釜で、子どもたちの元気のために尽力されてきた方々が、
利府聖光幼稚園のご協力のもと開催してくださいました。

聖光幼稚園、驚きの敷地の広さと子ども大喜びの高低差を有する施設です。

この日集まってきた子どもたちの半分はこの園の在園生か卒園生。

ここでのびのびと育ってきたんだろうな〜と想像できる子どもたちは、
コミュニケーションのあり方がある程度出来上がっていて、
みんなとても元気なんだけど、ちょっとしたことで譲り合いがあったりで、
ボクがここに来て何をやるまでも無く、みんないい子!!

なんだが、
セッションが進むにつれリミッターが外れ、みんな見た目以上の力を発揮!

はい終了〜!と告げた後も「もっとかきたーい!」だって。
いやー、ワイルドに美しいものに出会えてボクは嬉しいよ!

みんなまた遊ぼう!なんて言っていると、
多くの子どもたちが片付けを手伝ってくれる。

これ大人の誰に言われたってわけじゃなくて、自分から。

ボクは子どもとのワークショップで「描いて楽しかった!」だけ持って帰ってもらえればいいと思っていて、
実際、子どもたちは絵を描くと「プイ」って次の楽しいことに向かっていったりしちゃうものなんだけど、
ここの子どもたちは自分からお手伝いをしてくれる。

震災以降の子どもたちとのワークショップで、
子どもたちが自分の一歩で絵を描く手前で、
どうしても親の顔色を見てしまう傾向が高まった、
特に東日本でそういう傾向が強くて、

それは、震災以降の人を思いやる気持ちの高まりが、
大人同士の会話や社会との関わりに過度な遠慮(リミッター)を生み、
結果子どもたちの表現へのアプローチにも影響しているんじゃないかと。

この傾向は、震災からある程度距離のある都市部で特に感じることなんだけどね。

しかし、塩釜に隣接する利府の大らかな敷地を有する幼稚園に集まってきた子どもたちは、
表現することを恐れず、しかし他人を労り、最後の片付けまで手伝ってくれようとした。

これは、この幼稚園やこの企画に携わってくださったオトナたちが子どもたちとどう接し、
子どもたちの親御さんたちとどんな親鸞関係を構築してきたか、なんだろうな。

そうしたことにおいて、
被災地と呼ばれる土地のおいて醸し出されてきた人のマインドは、
被災から遠くの都市部のそれよりずっと未来にあり、
ボクはここで感じたことを、今度は東京の自分の暮らす場所に持ち帰らなくちゃって思いました。

現場を整えてくださったみなさん、ありがとう!
打ち上げの寿司、美味かったー
震災がきっかけで出会った塩竈から、今は豊かさを頂いている俺っす。

そして2日目。

塩釜市立杉村惇美術館でのワークショップは、
秋に開催される「チルドレンズ・アート・ミュージアムしおがま」のキックオフ企画。
*「チルドレンズ・アート・ミュージアムしおがま」去年のサイト> http://sugimurajun.shiomo.jp/archives/4335

アートを通して子どもと接するであろう大人の頭を柔らかくしておきたい!てワルダクミです。

企画は高田彩さん。

今年春の展覧会でもご尽力いただいた美術館スタッフであり、
ご自宅で展開のアートスペース”ビルド・フルーガス“の運営もされています。

ローカルが面白くなるために必ず必要とされる丁寧な汗かきさん。

そもそもボクの名前じゃそんなに集まるはずも無い人を、
現場のキャパきっちり集めてくださり、
ボクの予測不能な現場進行を邪魔することなくスムースに行える環境を作ってくれます。

春の展覧会の運営やワークショップで彼女の能力に驚き、信頼し、
今回はより自分らしく現場を創ることが出来たはずです。

「絵が描けなくて、、」と語るオトナなみなさんが創造する、
その人だからこそ描けた1枚の絵の素晴らしさ。

そこにはボクだからこその何かがきっかけとしてあるだろうけど、
高田さんのような方の力がしっかりと足場としてあるからこその、
安心感の上に咲いていることでもあるなと思うのです。

彼女のような能力を持った方を何人か日本の中で知っていて、
その土地その土地で色々とお世話にもなっていますが、
しかし、残念ながらどこにでもいるってワケでは無く、
これから未来、彼女のような人が生まれ育ってゆく社会であるよう、
ボクは出会う人と語り合ってゆかねばと思っています。

今回の塩釜では、さらに多くの方と言葉を交わすことが出来、
そこは未来を思い描く会話の現場であると共に、
今の厳しさをシェアする時であり、失われたものへの慈しみの場所でもあり、
これは100ヶ月なんていうことを「節目」にしてはいけない、
今まさにそこに息づく人の感情の問題であることだと、
さらに、さらに心に刻んできました。

ひとつひとつのことはこのような場所で言葉にすることでは無く、
ただ、それは誰にでも開かれていることなので、
今からでもぜひ、東北の太平洋沿岸部を歩いてみてください。

もちろん、熊本でも西日本でも、北海道でもどこでも、
ひとりのサイズで受け取れることは、実はとてつもなく大きなことなんだと、
確かな実感のもと感じている今です。

ところで、
そうやって知り合えたひとり、
塩釜在住の彫刻家 佐野美里さんの展覧会が東京の清澄白河のondoギャラリーであったので、
息子と一緒に行ってきました。


小学4年生男子が作家さんに質問ぜめの展覧会。

そこにはたくさんの会話と笑顔があって、
しかし、そこに至る彼女の創作のマインドはどこまでも真摯で、
それは3月11日以降風景や花の絵を描いてきたボクのなにかと重なることも多く、
俺ももっと頑張らなくちゃなあ〜
もっと朗らかなもの作ってゆきたいなーー!
なんて思えた展覧会でもありました。

ほんとありがた出会いばかりだぜ。

そして塩釜、こんどは秋だね!

その前に、来週は岩手県岩手町へ。

その後、福島市や喜多方市でもなんやかやのワルダクミ。

みなさん、みちのくで会いましょう!

なんて思っていたらピンポ〜ン。。

塩釜から米が届いた。

山田さ〜〜ん!
ありがとう。。
心していただきます。

人に生かされているなあ、俺。

99ヶ月め

2019 年 6 月 11 日 火曜日

今日は2011年3月11日から3,014日
430週と4日
8年3ヶ月
99回めの11日です。

あの日から100ヶ月という時の前後で、
宮城県塩釜へ、岩手県岩手町へ、夏が終わったころには福島へと、
子どもたちと一緒に絵を描いたり、オトナとの気づきの時間を作りに行きます。

目指すのは、今触れ合う子どもたちの10年後、20年後、
彼らが自分の力や判断でもって生きられるようにすること。

それに気づかせてくれたのは、
やはり東日本での人との出会いであり、

それを実行するためには、
やはり人との確かなコミュニケーションが必要で、

インスタントに出来てしまうことは何も無いという実感の、
あれから99ヶ月めの今日です。

そして、
ここ数日はコスモスの花の絵を描いていました。

5月末に川崎の登戸で痛ましくも悲しい事件が起きました。

通り魔に襲われ失われた命、
傷つけられた幼き身体と心、

その事実を前に語れることは無く、
ただこうしたことが二度と起きなくなる世の中にしなくっちゃって、
自分が無責任な場所にいる者と自覚しながらも、
犠牲になってしまった命に報いる道を考えています。

こうした発想の背景には、
やはり東日本の各地で出会ってきた人の姿なり言葉なりから学んだことがあります。

未曾有と呼ばれた悲劇を目に前にし、しばし立ち尽くすも、
やはりそこから学び、より良きものを創造してゆかねばならないのは、
生きている自分の責任だと考えます。

そして、
刃物を振るった男の狂気の力を、人を救う力に変えられなかったのかと、
無力感に潰されながらも考えています。

そうした考えを綺麗事と思われる人もいるでしょう。

が!
たとえばボクが生業としているイラストレーションなんていう表現なり仕事が、
世の中の孤立ってものにちゃんと向き合ったことがあったのだろうか?
なんて思ってしまうのです。

たとえば、
登戸で多くの方が犠牲になった通りの風景は、
今日本の町の至る所で見られる「似たり寄ったりの殺風景な風景」です。

それは「人が興味を持たなくなってしまっている風景」ということでもあるはずです。
(実際にその地に暮らし、愛を持って街に人に向き合う人も必ずいるはずですが)

日々のルーティーンに機能的に答えるだけの町の風景は、
孤立しまっている男に「どうなってしまってもいいや」と思わせてしまう風景なんだと思いました。

この事件のあった次の日から数日、
息子の通う小学校の登校時間の見守りをしてみました。

普段暮らしていてとても愛しく感じる街ですが、
昨日の今日の視線で歩いてみると、
エアポケットに落ちたような感覚で出会う無造作な風景を目にすることがありました。

それは社会の合理主義で進められた開発の中で、
見捨てられたようにして存在する場所。

自分が自分勝手な理由で犯罪を犯すとしたら、
ここなら「どうなってもいいや」と思えてしまうんだろう。
そんな恐怖を宿す場所というのは確かにあります。

ではどうしたらいいのだろうか?

ボクは絵を描く仕事をしていますから、
「どうなってもいいや」の場所をいかに良い方に変えるのか、
どんな絵がここにあったら良いのだろうかって考え始めています。

答えはすぐに見つかるものでは無く、
とりあえず見送る子どもたちやすれ違う親御さんたちに
「おはよう」と声をかけることから始めています。

今までもそうやってきたつもりだけど、
もっと確かな意思を持ってやらねばです。

そして、
これから作るものはドヤ顔のなにか立派な物では無く、
より1人ひとりの存在に想像力を働かせたものにしてゆこうと考えています。

登戸の風景を見て、ボクは東日本の被災地と呼ばれている場所のいくつかの風景を思いました。

復興に向かう中、のっぺらぼうな表情を見せてしまっている街の景色。

いつも口にすることですが、
絵やイラストレーションに出来ることってこれからが本番。

それがそろそろ本気で急がなくちゃって感じになっているはず。

日本中で画一化された、もしくは、日本中で同様に寂れてゆく街の風景の中で、
ボクはひとりの存在と寄り添い、願わくばホッとひと息つけるようなものを作り、
それを必要とされる場所に置いてゆきたいと思っています。

それは雑誌の中の小さなカットを描く時でも、
ネット上の小さな画像ひとつでも、
働かせる想像力は同じでありたいです。

98ヶ月め

2019 年 5 月 11 日 土曜日

今日は2011年3月11日から2,983日
426週と1日
8年2ヶ月
98回めの11日です。

令和になりました。

平成は多くの情報がデジタル圧縮され、人はその情報にアクセスすることで、時間や空間を超え生きる術を得ました。

アナログのデーターのカタチは、乱暴に言ってしまえば円や球です。

膨大なデーターを人に届けようとし、アナログデーターを積み重ねてみると、そこにはどうしても隙間が出来てしまいます。

データーを運ぶ道幅は決まっていて、慢性的に渋滞しています。
そんなところをカサがデカイ割にスカスカの荷物を運ぶことは、効率的な行為とは言えません。

デジタルの技術は、これも乱暴に言ってしまえば、丸い形状のものを四角く削り、隙間なくコンパクトに積み重ねやすくすることです。

アナログレコードの音が丸くて耳に優しいのは、たくさんの隙間を持った球状に広がる音だからです。

その隙間は人それぞれの想像の余地であって、人は音楽を聴きながら(受け取りながら)も脳みそは想像を続ける。
その心地よい疲れが「気持ち良い」のだろうね〜。

しかし、そのデーターを運ぶためには、重い塩化ビニールの円盤に溝を刻んで、大してデーター量を書き込めないクセにかさ張る紙でジャケットを作らねばなりません。
そうして記録出来る音楽はわずか45分ほど。
しかもそれを再生するには、レコードよりさらにかさ張る機械に乗せなければなりません。

こんな非効率なことは無いわけです。

誰でもアクセスし易くし綺麗に積み重ね、効率よく取り出されるようにしておく。
amazonの配送センターみたいなのが理想でしょう。

これから情報はAIに集約され、さらに効率的に活用される時代になるのでしょう。

が、しかし、この丸っこくてスカスカのものがどうにも人を救うものだったりするんだよなぁ〜〜

時代超えの夜にそんなことを考えていたら、イラストレーターの仕事って益々面白くなってゆくんじゃないかってね。

確かな肉体を生かし作られるもの。その価値を磨き高めてゆくことで、今までに無かった絵の活躍する現場なんて創れるんじゃないかと、スカスカの脳みそでワクワク考えています。

その最初の一歩として描いてみたのは、相変わらずその辺に咲いている花なんだが、
そこには今まで出会ってきた人との、ピクセルでは表せない丸っとした記憶が塗り込められているはずです。

こうしたことを、今もこうやってデジタルな現場で語っているわけですが、
だからこそ大切にしなければならないこと、日々繰り返し考え、行動に移してゆこうと思います。

97ヶ月め

2019 年 4 月 11 日 木曜日


今日は2011年3月11日から2,953日
421週と6日
8年1ヶ月
97回めの11日です。

先日は岩手県宮古市へ。
2年前の3月にもお世話になった
岩手県太平洋沿岸部のすべての町から失われた映画館を復活させることで、
地域や遠方の土地とのコミュニケーションを生むプロジェクト”シネマ・デ・アエル”で、
子どもたちと絵を描いたり、展覧会を開催したり、映画上映後のディスカッションに登壇したり。

何より太平洋の真珠のような町宮古と、そこで出会った人たちとの再会が幸せな時間でした。


また、今回の上映作んのひとつ、
福島県双葉町に伝わる”盆唄”を震災後復活させてゆくドキュメントにして、
個人的にはミュージックエンターテーメントとしてとても楽しめた「盆唄」の上映後、
監督である中江裕司監督と言葉を交わせたことは、大きな財産になりました。

ボクがとても大切にしている映画「ナビイの恋」などを通して、
沖縄の人々の深い情や朗らかに生きる知恵を伝え続けてくれた中原さん。

今双葉町を描くことは、原発事故と向き合わざるを得ないことでもありますが、
中原さんはしっかり「ひとり」を見続け、ひとりから放たれる表現に耳を澄ませることで、
ひとりの背景に広がるリアルを確実に、しかし軽やかに描きとったはずです。

双葉町に広がるリアルは、ただ人前に放り出されるので無く、
最後は盆唄にしっかり抱きしめられる映画です。

失われたものに対して打ち鳴らされる盆唄の美しさ!

あの日から8年の春にこの映画に出会えてよかった。

あの日から8年の宮古。
ボクにとっては2年ぶりの宮古は、
変化の中にありました。

「盆唄」に出会った宮古の方々は、
この映画をエンターテーメントと捉える以前で、
福島の原発事故に対する深い憤りと宮古の現状を掛け合わせて受け止めたようでした。

そうしたことに監督である中原さんは、
ご本人としてエンターテーメントとして見てもらいたい「盆唄」を、
「宮古に来てやっとわかった。自分は双葉町の亡くなられた方々に、この映画を作らされたのだと思う」
と発言されていました。

宮古の漁港をグルッと囲むように建設された10mほどの高さの防潮堤には、
「海を失いたくない」という町のみなさんの声に答え、
厚いアクリル板がはめ込まれた小窓がいくつも作り込まれていました。

その制作費、ひとつ200万円ほどとうかがったのだけど、
これは都市伝説だったりするのか?
それとも本当に200万円?

ボクが何度も描いてきた鍬ヶ崎の浜の風景も失われています。

この感覚は、初めて被災の現場に立った時と似て、
初めて出会う風景に心の動きが止まる感じでした。

なので、それに対してボクが何か口にするのでは無く、
ここに暮らす人たちの言葉に耳を澄ませてゆかねばならないと思いました。

津波被害のあった場所では、未来の街づくりの実験のようなことも行われている印象で、
「復興」というものが、そこに暮らす1人ひとりにとってどういうものになるのか、
東京で暮らすボクは、引き続き宮古を訪ね、確認してゆき、
もし必要とされるのであれば、街に生活に必要とする彩りを与える仕事などしたいです。


震災直後から仮設で営業を再開した酒屋さんは、
前回は来た時は海側に移転していて、
今回は元あった場所に立派に再建されていました。

そんな志の先で、どんな人間の物語が育ってゆくのか。
そんな志がどんな美しさを街に与えてゆくのか。

「3・11」という記号を消費してしまうで無く、
「平成」の終わりにボクの勝手でリセットしまうでも無く、
ましてや「復興オリンピック・パラリンピック」などというワードを一人歩きさせることもせず、
自分の足の裏の感覚を頼りに、1人ひとりに出会ってゆかなくちゃだな〜

ワークショップに参加してくれた宮古の子どもたち、
とても豊かな色彩を持っています。

でも前回同様に絵に向かう最初の一歩がとても慎重。

それを前回は東北ならではシャイな資質と思ってしまったのだけど、
2年後の今は、それが全国的な傾向であることを、
この2年間に出会ったきた子どもたちの様子から感じています。

大人が過度に人に気を使い生きている。
もしくは、表現やコミュニケーションを失敗することを過度に恐れる。

震災以降、そんな傾向が深まったんじゃないかと。

子どもたちにはとても豊かなものを与えていながらも、
表現の最初の一歩めのところではつい
「それはやっちゃダメ」という言葉が優先されてしまう。

そういう言葉が使われる背景には、
日本人の「優しさ」という資質があるはずなので、
ボクがわざわざ矯正を促すべきでは無く、

ただ、ボクと子どもたちとの時間の中で、
子どもたちに埋まっている豊かな力を確認してもらえたらいいな〜

ちっちゃいうちに吹っ切れたことを1度でも経験出来ていたら、
いざという時の力になるはずだと思うのです。

などと、ある意味2年前に宮古で感じたことは、
日本の一番最先端で起きていたことだったんだって思いました。

良いものにたくさん出会えた宮古。

旅の最後に「人生フルーツ」なんて映画に出会えて、
その日がちょうど昨年亡くなった父の命日だったりして、

シネマ・デ・アエルの人の輪は、
やはり「死ぬまで会える」絆をじわり構築するものなんだよな〜と。

みんな、焦らず良いもの積み重ねてゆきましょう!なんて願い、
壁面に大量の絵を残して帰路につきました。

会期を延長していただいたボクの展覧会を守ってくれたのは、
この企画がご縁で結婚してお子さんを設けた方。

赤ちゃんのオムツ取り替えながらギャラリー番をします!って。

東京での展覧会みたくワッと人が足を運んでくれるはずは無く、
しかし、「効率」ってことでは語れない福をボクの絵に、そしてボクに与えてくれた宮古です。

30年くらい絵を描いて生活してきた中、
密かに求めていた絵のある風景に出会えたはずです。

ありがとう、宮古!
岩手、東日本
PEACE!!

96ヶ月め

2019 年 3 月 11 日 月曜日


今日は2011年3月11日から2,922日
417週3日
8年
96回めの11日です。

3月2日から10日まで塩竈市立杉村惇美術館で開催の展覧会「東日本」
無事に終えることが出来ました。

東北ではまったく無名のボクですが、
8日間の会期をと通し、口コミでのお客様が増えてくれたのは、
震災の次の年に東京で展覧会を開催した時に似ていました。

1枚の絵を間に生まれる会話を楽しんでくださる多くの方に出会えたこと、
あれから8年という時の流れを感じることが出来ました。

そして、あらためて、
「それどころでは無い」という立場に置かれたままの人を想像したのも、
美術館という装置ならではなんだと思いました。

また、長崎から、愛媛から、大阪から、東京から、福島からと、
わざわざ遠方より足を運んでくださった方があったことは、
杉村惇美術館という美しい場所の求心力でもあったなと。

しかも、ただ美術館という箱があるだけでは無く、
企画運営する方々の魅力が細部に宿っているからこその、
美術館の求心力であったと思います。

熊本で、福島で、美術館関係者から「塩釜には彼女がいるから」と伺っていた、
ビルド・フルーガスの高田彩さんには、
噂通りの見事なオーガナイズを頂きました。

杉村惇美術館の館長さんである岩澤さんは、
お客様にボクの展示をまるで自分の展覧会のように語ってくださるので、
ギャラリーが終始朗らかな空気に包まれていました。

他の学芸員さんも実に丁寧な現場創りに尽力されていて、
いい加減になりがちなボクの展覧会を凛としたものに仕立て上げてくれ。

併設されたカフェのスタッフさんにしても、
美術館のカフェとしての美意識を貫く所作がとても綺麗でね〜。

お客様として足を運んでくださった皆さんの「来てよかった〜」は、
そんな皆さんの尽力の賜物に間違いありません。

例えば「被災地の復興」ということを考えてみても、
こんな方々の奮闘が美意識の現場を育ててゆく姿も、
これからの復興に欠かせないものだと思いました。

しかし、こんな現場がひとつあるだけで、
ずいぶん豊かさを感じるものです。

宮城県の他のエリアから来た人が、
塩竈にこの美術館が出来たことを羨ましく語っていましたが、
実際ボクもこの場所で多種多様な方と会話が出来たなあと。

美しい箱とそこを運営する人の尽力で、
地域の風景がちょっと豊かに見えること。

そこに自分も絵で関われたこと、うれしく思います。

会期中2度開催したワークショップも、
ボクの思惑以上に意義深いものになったはずです。

集まってくださったみなさんの、
想像以上のクリエイティビティに出会えた喜び。

それ以上に、
みんなで絵を描いたからこそ生まれた「はじめまして」同士のオープンな会話。

そして、美術館の、普段なら静寂に包まれているはずのギャラリーに響いた、
元気な子どもたちの声!

子どもたちの持っている力の鮮やかさに、
パパママたちの歓声が上がる。

アートとか芸術とか語ってかしこまってしまわず、
今を生きる人の必要に答える美術館のあり方。

新鮮だなあ〜〜!

もちろん、これで震災前の塩竈に戻ったわけでは無く、
多くはこれからだろうし、失われたものを取り返せるわけでもなく。

それでも、震災の経験した土地が手にした「人の必然に当たり前に答えるマインド」は、
日本のみならず世界でも最前線の感性によって形成されているように思いました。

*この感じ、2月の福島県昭和村でも感じたこと。
http://www.yakuin-records.com/amigos/?p=13989

あらためて、
ボクがなぜ塩竈市立杉村惇美術館で展覧会を開いたかを記しておきます。

2011年3月11日以降始めた震災被災地を中心としたフィールドワーク。

その10回目くらいに当たる2013年1月末から2月頭にかけてのフィールドワークで、
岩手県の宮古や宮城県の気仙沼を巡った後、
一関のホテルで見ていたテレビで、塩竈の港の施設が再開されたみたいなニュースをやっていて、
そういえば東京で塩竈を報道されることは少ないなと。

初めて訪れた塩竈は、確かに津波の爪痕は残っていて、
しかし以前の街の姿を知らぬボクはただウロウロするばかり。

そうしてたどり着いた塩竈港では、
カモメ(うみねこ?)にかっぱえびせんを投げ与えている女の子に出会ったりしてね。

港には復興市場なる仮説の海産物の販売所があって、
隅っこのプレハブの中で震災被害の写真展をやっていて、
そこで海産物の発送の仕分けをやっていた女性に「ちょっと見ていいですか〜?」って聞いたら、
「どーぞ!見て見て!!」ってすげー元気に返されて。

港町の女、やっぱ元気だね〜なんて思っていると、
「ちょっとこっち来て!」って、ご家族が営まれている海産物の直売所に呼ばれて、
「牡蠣食べて!」「わかめ食べて!」「どう?おいしいでしょ!」って。

いやいや、被災地の甘い汁吸いすぎだろうなんて言ったら、
「いいの、いいの!」「これ作ってるの私の旦那なの」
「すごーくいい男なんだから!」なんてご主人自慢。

『被災地に行ったら、逆に被災者に元気もらっちゃいました』
こんな話を良く聞くけど、それは言っちゃお終いだろうなんて考えていたボクが、
しっかり元気が湧いてきちゃった「ひとり」との出会い。

ボクは絵を描いていることを告げ、
持っていたカモメやシロツメクサを描いたポストカードを渡して東京に帰ると、
しばらくして彼女からの手紙。

そこに書かれた、
震災の直後に海から見上げた空に見たカモメに、生きてる実感を得たこと。
保育士としての二十歳の初出勤の朝に、足元にシロツメクサを見て、不安の気持ちが和らいだこと。
ご主人のことが大好きなこと、、
また塩釜に来るのであれば、ご主人が働く海を見てもらいたいこと。
塩竈神社の塩竈桜もぜひ見て、いつか描いてもらいたいことなどなどが、
小気味好くも美しい文体で描かれていました。

「ああ、出会ってしまったなあ〜!」

ボクは塩竈桜の咲く季節を調べ、
5月5日に再び塩竈へ。

彼女の働く海の上を羽ばたくカモメを描き、
2度目の開催となった「東日本」という展覧会のメインビジュアルにして、
彼女に送りました。

2014年1月の東京青山での展覧会の初日の朝、
彼女が塩竈から、保冷ボックス一杯の牡蠣やワカメを抱えてやってきて、
オープンした展覧会を15分くらい見たら、「来れてよかった」って、
日帰りとも言えぬトンボ帰りで塩竈に帰っていった。。

そうしてボクは震災後初めて被災地と呼ばれる土地に友を得た。

そのカモメの絵は、展覧会に多くのお客様を呼んでくれ、
主に西日本での巡回展を呼び寄せ、
「とうだい」という絵本の作画の仕事に結びつき、
「赤崎水曜日郵便局」の書籍化の際の装丁画の仕事にも結びつき、
(偶然だけど、筆まめな彼女の水曜日の手紙も掲載されていた!)
水曜日郵便局のお膝元、熊本県津奈木町の”つなぎ美術館”での展覧会開催に至る。
(最初に描いたカモメの絵が大阪の方の元に羽ばたいていったので、あらたに描き下ろした)

そこでの水曜日の出会いは、
水曜日郵便局次の開催地、宮城県東松島の宮戸島を舞台とした
「鮫ヶ浦水曜日郵便局」にボクを引き込み、
水曜日の手紙をテーマとした絵本制作のオファーをもらう。

オリジナルのストーリーは作れるか?の問いに、
松島湾の南っ側の塩竈に、よく手紙をくれる人がいて、
その人をモチーフにストーリー作れるって、
「うーこのてがみ」というタイトルの絵本の制作を始めました。

その間、彼女は事あるごとに手紙を送ってくださり、
またご主人とのラブラブ話はさらに深まり、、

ボクと長崎の諫早のオレンジスパイスさんとで運営している”peaceてぬぐい”に添える手紙に、
『被災地の今を伝える手紙』として数度登場願ったり。

ボクもフラリ塩竈を訪れては、
彼女のご家族の営む海産物の直売所で、相変わらず美味しい思いをして、
復興市場から津波で流される以前の場所、越ノ浦に直売所が戻った際のお祝いに行ったり。
「暮しの手帖」の震災特集に登場もしてもらったなあ。

で、そんなお付き合いの中、
彼女が尋常ならざるくらい「人のために働く人」であることを知り、
家族の仕事を助けながら、さらに家計を助ける仕事に奮闘している姿に、
無茶はさせられないなあと、
東京の展覧会に駆けつけトンボ帰りをした意味なんかを噛み締めていて、、

が、2018年、震災から7年目の春に、
「そろそろ私がやりたいと思うことに集中してゆくんだ」って、
仕事を減らして、例えば大切に考えている
塩竈港の万葉の昔から伝わる呼び名「千賀の浦(ちがのうら)」を復活し、
地域ブランドに育ててゆくことなど、
ともかく愛する家族や地域の元気のためにやれることやってゆこうって。

ならばボクの描いたカモメの絵なんかも使ったらいいよ!なんて話をして、
でもその前に羽田空港で羽ばたかせるから、
そんなんをきっかけにしていってくれたらいいよ!なんてね。

そしたら「羽田空港ぜったいに見にゆくから!」って、、

無理して羽田来ること無いよ!
俺、塩竈で展覧会ひらいて、あのカモメの絵も連れてゆくからさ!なんて言えば、

「いや、展覧会は私が企画する」「いい場所見つかったから楽しみにしていて!」だって。

ボクはその間、震災後の活動がユニークだと、
あるテレビ番組の制作チームに取材されていて、
カメラがボクの方を向く度に、
違うんだよ、すごいのは彼女なんだよ!なんて思っていて。

結局この取材はテレビ局上の方の人の
「ボクと”被災者”との関係が分かりづらい」みたいな”分かりやすい”理由でお蔵入り、、

でもいいんだ、
被災者と付き合うのが目的じゃねーよ、、
彼女のような「ひとり」と出会い、その関係を大切に育てることが、
人に、地域に、どれだけの幸せを生むことか!
(ただ、ボク以外の人たちは番組を楽しみにしていたのだが、、)


2018年8月、「うーこのてがみ」の作画を始める。

うん確かに「うーこ」の動きは彼女の動きに似ているぞ!
彼女と出会った際、自分の店にボクを誘った時の軽快な足取りとか、まさにだなあ〜、
なんてニヤニヤしながら筆を進めている中、彼女の訃報が届く。

49歳

ボクはボクの勝手な歴史の中で、彼女のことを端折ってここに書いているけど、
彼女の家族や知り合いの喪失を肩代わりなどすることは出来るはずもなく、
ただ、彼女の家族の皆さんやお知り合いの皆さんと、もっと彼女の話をしたくてね、
いや、もうなんも知らないから、

どうやら彼女がボクの展覧会を考えてくれていたのと、
カモメの絵がご縁で知り合いになっていった美術館が一緒らしいってことで、
塩竈市立杉村惇美術館に100点以上の絵を送りつけ、
結果、
映像作品も含め90点の作品の人生最大展を8日間だけ開催した。

それは刻々と変化する塩竈の光とお会いする皆さんとの会話に溢れた、
とても美しい、
きっとボクがこれまでに創ってきたものの中で一番美しいものになったはず。

水間さわ子さんという「ひとり」に出会い、
ボクは震災後の混乱する気持ちのままカモメを見上げ、
その後を生きるための基準となるような絵を描き、
遅ればせながら塩竈に届けた。

すべてはこれからだ。

展覧会から明けて3月11日。
宮城県塩竈は雨。

この後雨脚はさらに強まり暴風雨化するとの予報に、
いくつかの予定をキャンセルし、東京に戻りました。

なにかあったらすぐ駆けつければいいね。
塩竈、心の距離はめちゃくちゃご近所になったしね。

2019
0311
PEACE!!