2016 年 7 月 11 日 のアーカイブ

64ヶ月め

2016 年 7 月 11 日 月曜日

満月の夕_1000
今日は2011年3月11日から1949日め
5年4ヶ月
64回目の11日です。

アップした絵は仕事の依頼で描いたもの。

4月の熊本大分の震災発生後、
表紙を連載で描いている音楽の業界誌から、
『震災の復興支援の現場で音楽家が活躍する姿』
たとえば物資の配布や炊き出しなどで活躍している姿を
イラストレーション化してくれとのオーダー。

しかし、本誌発行は7月なので、
現場の直接的な支援を超えたところで、
音楽の持つファンタジーを失わぬ
もっと象徴的な絵であるべきではないかと考え、

阪神淡路の震災の際に生まれたソウルフラワーユニオンの唄
「満月の夕」のオマージュとして、
仮設住宅のシチュエーションをお借りし、
『人の集う場所に静かに寄り添う唄』を絵にしてみました。

月の灯りに包まれた人々は
みな「弱きひとり」であり、
ひとつの唄を囲み、
1人ひとりの喪失に、、

う〜ん、
どうなんだろう?

「向き合う」

「折り合いをつける」

「寄り添う」

「抗う」

「考えぬようにする」

あの日からそろそろ2000日を迎えるのに、
ボクの想像力は未だ追いついていません。

いや、
阪神淡路の満月の夕から21年たっても、
ボクはなにもわからないでいるはずです。

それでも、
ただ人の心を包む月の灯りのような唄、もしくは絵、
そんなものが必要なんだという確信はさらに深まっている今です。

今回、アンサリーさんバージョンの「満月の夕」から
さらなる月の灯りのイマジネーションをいただきました。

Youtube> https://youtu.be/gO3geXZoW00

昨日は参議院議員選挙の投票日でした。

公示日から投票日まで意識して多くの人の話をうかがってみて、
特に今は息子が小学校に入ったということで、
今まで触れてこなかったような人たちのお話もうかがうことが出来て、
1人ひとりどんな考えを持ち、なにを支持するか、
人それぞれの違いに出会うのだけど、

そんな「違い」以上に感じたのは「善意」

ほんとみんな「善意のひとり」であるなあという実感。
日本の社会の実に広大な部分は人の善意で出来てるって実感。

しかし、
コミュニケートすることを面倒くさがり放っておくと、
そういったものはすぐに見えないものになってしまう。

それが今という時代なんだとも実感しました。

人の主義や主張というものは、
それが立派に聞こえれば聞こえるほど、
立派なものの向こう側に濃い影を作ってしまいます。

ボクたちは2011年3月11日からのあの暗い夜の日々の中で、
ボクたちの中に埋まっている寛容のマインドを発見し、
これから必要なことはお互い助け合って手にしてゆくんだと思えたはずです。

しかし、どうやら寛容と共に不寛容の蓋も開いてしまったのでしょう。

そんな不寛容のマインドは、
2016年の夏になると立派な言葉の向こう側に出来る濃い影の中で、
目に見える大きさに育ってしまっているんだと思いました。

本来善良である人と人を分断させるもの。

それがなんであるのか?
その意味を探り、抗ってゆくこともあるでしょうが、

それでもボクが創ってゆくべきものは、
月灯りのように人を包むものではないかと思っています。

濃い影におののくことなく、1人ひとりが静かに自分を確認し、
お互いの存在を認められるほどのささやかな光に包まれた場所。

それは1枚の絵の前のわずかなスペースや、
印刷された絵を囲む数人が作る構図でしかないことも
少なからずあるのですが、

「シェア」や「拡散」では伝えることの出来ない
1人ひとりの生きる背景に潜むリアルな言葉を、
風通しの良い会話を持って交わせる場所であればなあと、
ほんと地道な作業ではあるけれど、ともかく続けなくちゃです。

そんなものが今本当に必要であること、
ボクの巡った「地方」と呼ばれる土地に暮らす人からも、
ボクの暮らす東京都渋谷区という土地で生活を共にする人からも教えてもらい、

そんな1人ひとりを思い浮かべながら、
参議院議員選挙の1票も投じた今回。

そんなささやかなものを創り続けられるよう、
面倒くさくてもいつも太陽のある場所は確認し、
しかし程よい距離を保ちながら、
ともかく日々のひとつひとつをやってゆこうと思っています。