2016 年 12 月 11 日 のアーカイブ

69ヶ月め

2016 年 12 月 11 日 日曜日

今日は2011年3月11日から2102日め
5年9ヶ月
69回目の11日です。

11月最後の週末を使い福島から宮城と巡ってきました。

ある雑誌の「3・11特集」の取材。
ボクの視線から見えるもの、出合ったこと、感じたこと、
言葉に編んでいただくとのこと。

編集長や担当編集者と何度もディスカッションを重ね、
もちろんボクがなにをしたところで、
震災からの復興の役に立つようなことは出来ないことを確認の上、
今なんとか手の届くところまで歩いてみようとなりました。

50数年ぶりに11月に小雪の舞った東京から福島県いわきの塩屋埼へ。

今年の8月に見た灯台の風景とはまた別の、
この季節ならではの光に溢れた姿。

震災後なんども足を運んでいますが、
あらためて「ボクは東北のことを何も知らないでいる」と実感。


何度も絵にしてきた豊間のビーチも、
襟を正し「はじめまして」とご挨拶したくなるほどの美しい光に包まれていました。

海から陸に視線を振ると、かさ上げ工事はさらに進み、
8月に歩いたばかりの道を間違え、ぬかるみに足をとられ、
高速バスでの移動の時間を逃しました。

それでも、
あらためてこの場所の美しさに出会えたことは、
この場所に暮らしてきた人たちの日々を想像することにつながり、
それは自分が描く絵に鮮やかに反映するだけでなく、
ボクの日々のあり方をより豊かにするものだと思えました。

そんなわけで、ちょっと遠回りになったけど福島市へ。

福島市で1ヶ月半前に開業した食堂「ヒトト」へ。
以前 SHOZO 04storeで働いていた大橋祐香さんに会いにゆきました。

東京吉祥寺で美味しいマクロビオテックの食堂として支持された「ヒトト」

店主の奥津さんの取り組みは、自然と震災後の福島での人の繋がりを生み、
福島での豊かな地域コミュニティの創造を目指す人たちから乞われる形で、
今回の出店につながった店です。

大橋さんも「ふるさと福島のためになにかやりたい」と願い、
このコミュニティの信頼おける先輩方からの紹介で、
この店を切り盛りすることになったそうです。

SHOZOでの彼女の仕事っぷりを知るボクは、
彼女の福島でのチャレンジに出会いたくて足を運ぶとともに、
彼女の視線から「福島の今」を知るきっかけを得る。

仕事=信頼

そんな理想を追いかけてみたら、
福島の「ヒトト」にたどり着いたということでもあります。


店主の奥津さんも、現在お住まいの長崎県雲仙から来ていて再会。

わずかの時間でしたが、
今ボクたちはどんな価値観を持って日々を暮らして行ったら良いのか、
深い話を、実に晴れ晴れとした気分で交換することができました。

福島は今でも原発の影響下にあり、
食の安全ということではみなさん特に気を使いながらも、
信頼おける生産者を見極め、その上でさらなる信頼の関係を構築し、
なにより美味しく元気になるものをこさえるということを目標に、
まずは開店から1ヶ月半、突っ走ってきたんだろうね〜、、

いや、まだまだ1ヶ月半。

「ヒトト」が福島の街で末長く愛される場所になりますよう、
ボクもイタズラに持ち上げることなく、ゆっくりおつきあいしてゆけたらだな。

なんだけど、
やっぱここで食べたメシ、
東京に帰ってジワ〜っとその旨さを思い出しちゃうんだよね。。

ほんと、また来るわ!

大橋さんにはちょっと街の案内をしてもらい、
大橋さんやヒトトをめぐる福島の豊かな人の関係の一端に触れさせてもらって、
しかし、
今は出会いの喜びを噛み締め、
焦ることなく信頼の関係を築いてゆけたらだ。

っと、
みんな深夜まで明日の仕込みだよね。

ひとつの場所を守ってゆく大変さ、
察するしかないのだけど、
お互いそれぞれの場所でベストを尽くし、また会おう。

なんだろ、
10年ちょっと前に福岡の街で触れた人の繋がりの豊かさ、
それと同質以上のものを、今は福島の街に感じているボクです。


明けて早朝、福島の街をちょっとランニング。
信夫山の中腹あたりまで走ってみたら、
そこは今でも除染中であったり、空間線量を示す立て看板があったり。

今回巡った福島でも宮城でも、
地元の新聞には空間線量を示すグラフが掲載されていて、

宮城は都内の線量と変わらずって感じだけど、
福島は福島第1原発を中心に、やはり未だ高い線量なんだけど、

ただ、東京ではそういったものが可視化出来なくなっている分、
自分が3月11日以降の世界の中の「どこ」に立っているか明快に分かるし、

やはり、ここで奮闘している1人ひとりとの信頼を確認してゆくとで、
「FUKUSHIMA」という観念とは別の、
福島県、会津と中通りと浜通り、会津若松市や福島市やいわき市、「ヒトト」や「豊間」
それぞれの魅力に出会い、無力ではあるけれど、気持ちを寄り添えてゆけたらと思いました。

福島での時があまりにも豊かなものだったので、
よーし、無理してでももっと人に会おうと、
仙台経由で東塩釜へ。

東塩釜の越の浦の「千賀の浦市場」の共栄丸さんを尋ねました。

過去に共栄丸の長女の水間さわこさんが送ってくれた手紙は、
震災からの苦労を感じさせられる以上に、

被災者はもちろんもともと「被災者」という名前の人ではなく、
ささやかではあっても掛け替えの無い日々を送り、
しかし震災があって、
ただそこでなにを失ったかは極私的なことであり、
「名を持つ被災したひとり」であるんだってこと、
ほんと当たり前なんだけど、気づかせてくれました。

そして、あらためてうかがった、
水間さんのアイデアでもって、
この土地を万葉集にも詠まれた名前「千賀の浦(ちがのうら)」と呼ぶことにしたこと、

震災で失ったものはあるけれど、
震災があったからこそ芽生えたその土地に暮らすアイデンティティを
ポジティブに感じられたこと、

やはりわずかな時間だったけど、
編集者に水間さんを紹介できてよかったです。

共栄丸さんは緩やかに代替わり中のようで、
これまでのワカメや昆布、牡蠣の養殖に加え、
タコやワタリガニなど、
その季節ならではの千賀の浦の幸にトライしてるようで、

すんません、、
相変わらず色々とご馳走になってしまいまして、
美味しかったっす!
また来ます。

共栄丸さんからJR松島駅まで移動、
東北本線を乗り継いで一ノ関駅まで。

東北の懐の深さを感じる旅です。

さらにドラゴンレール大船渡線で気仙沼。

福島の沿岸部から内陸、宮城の沿岸部から内陸、さらに沿岸部と、
途中郡山から福島まで13分間だけ新幹線を使っただけで、
在来線とバスを使っての旅は、目にも心にも優しい時間。

ただ、この数日前に震度5の地震と共に津波警報も出され、
行く先々で出会う人たちはみな恐怖と共に「あの日」を思い出したようで、
今年の夏に東北を巡った時以上に、
あらためてそれぞれの「3・11」を緊迫感を持って語ってくれた印象でした。

唐桑までのタクシーの運転手のおじさんも、
その軽やかな語り口調とは裏腹に、
仮説暮らしの大変さを言葉にしてくれて、
それ以上に、大切な人を失ってしまわれた方への思い、
というか、ご自身の無力感として語ってくださり、

5年9ヶ月めの今もすべては渦中にあり、
ボクたちは想像力を失わぬかぎり
無力ではあるけれど、
それに寄り添う生き方を選べるんだって思いました。

夜は唐桑のユース「リアス」に宿泊。

震災後関西から唐桑に住み着いた
今や唐桑の重要人物さいちゃんの「半島料理」を肴に、
呑んだなあ〜。。

ほんと、ここでの下らない話がサイコーに楽しい!

「震災」「被災」「復興」

どれも1人ひとりの日々があるからこその言葉。

その言葉の中にボクの目の前にいる人は生きているか?

美味しい果物も採れる唐桑にあって、
桑の実でこさえたジャムの素朴な甘さがうれしくてね。

遠洋漁業で沸いた土地も、これから確実に社会構造が変わってくるのだけれど、
こんなジャムの味わいの中にも未来を感じられたボクです。

明けて唐桑ランニングフィールドワーク。

晩秋の唐桑、美しいです。

通りや家々の庭や軒は花で彩られて、
ここに生きて来た人たちに心の余裕と豊かさを感じます。

山間の集落から急激に下る道の先には豊饒の海。

道の途中、海抜30mあたりでも「さらに上へ」の津波避難の指示。

あらためて、
豊かさとは生死の境目から得るもので、
万全の注意を持って取り組むべきものだが、
悪戯に恐るものではないんだと思いました。

そういう実感と「オリンピックによる復興」という言葉に
整合性を感じられぬモヤモヤ感を抱えたまま下ってきた坂道を駆け上ってみたら、
いや〜、大変、大変、、
いざという時お年寄りがこの坂を登るのって、
大変だよな〜〜、、

巨大防潮堤は「復興」のわかりやすいアイコンになるだろうけど、
より確実に命を守る手段「高い場所に逃げろ」

先日の震度5の地震でもかなりの避難渋滞が起きたそうで、

ならばお金も人の知恵も使うべき部分、
オリンピックのフワフワした空気に思考停止になることなく、
考え続けて行かなくちゃならなんだ、
被災地と呼ばれる場所も、
そうじゃないと思っている場所で暮らす人も。

にしても、
普段使わぬ筋肉ずいぶん使った、、

で、午後からはプランタンへ。
この場所で2年ぶりの絵のワークショップ

2年前に紹介されたこの店。

店主一家の小山さんが震災前に営んでいた店が津波に流され、
しかし、地元の方々からの信頼のもと、
この民家の利用を相談され、いろいろ悩んだけど、
今だからこそ出来ることをやってみようと始めたってこと、

知り合って2年目にして、
もっともっと真摯な言葉で編集者に語っていたのを
そばで聞いて知りました。

それでもボクは出合った時と変わらず、
このあっけらかんと温かな空間で思いっきり甘えさせてもらうだけ。

それは小山さん一家の「どうぞそうしてくれ」という言葉が、
空間のあらゆる場所から聞こえてくるからなんだよね。

もちろん「察する」ということはあるのだけど、
だからって何が出来るってものでもなく、
しょうがない、ボクはボクの積み重ねてきたものをぶつけてゆくしかないねって、
みんなで絵を描きました。


参加者の中にはもうじき90歳っていうかわい子ちゃんもおられて、
さーーて、どうしたものか、と思ったりもしたのだけど、

そこはそれ、
唐桑を彩る花々を育ててきた人たちです。

うまいこと表現の蓋を開けることが出来たら、
中には美しい色彩しか詰まってないのです。


お孫さんにプレゼントする向日葵の花の絵、
見事でした!

ほんとね、
1人ひとりの中の「楽し色」はもちろん、
「悲し色」も否定しようもなく美しい。

それが楽しい語らいの中で解放されていった時間。
思いっきりボクがトクをした。

そして、
そんな色と色がからまり合い重なってこそ生まれる未来。

「救い」というものは、
自分では心のどの部分に働くのかも、
どこからやってくるのかも分からないでいるのだけれど、
たとえば『30年ぶりに出会うちょっとした一言』なんてものに、
ささやかな救いを得ることもあり、
実はそんなささやかさの中に生きる本質はあるんじゃないかと。

晩秋色に染まった唐桑はボクの心の深い部分に働きかけ、
色んなことを考えさせるきっかけを与えてくれました。

うん、
また会いにきます、小山さんご一家、プランタン、唐桑。

願わくば、
プランタンとヒトトが出会うようなことがあればいいな。

それぞれの食のあり方やホスピタリティーなど、
東京とか経由しない確かな価値観として、
未来を生きる糧になるんじゃないかな。


さて、
こんな極私的東北恋旅に付き合ってくださった編集Sさん。

旅の途中を通してともかく語り合ったのだけど、
それを編み直して読者に届けることも重要だけど、
Sさんが直接1人ひとりと向き合い語り合ったということに意味があるなと。

そこで手にした実感を身近な1人ひとりに自分の言葉で手渡してゆく、
そんなことのきっかけになったことが嬉しいです。

その程度のことなので、
ボクを通してなにかを作っても、
それは一般受けして売れるものでは無いので恐縮に思うばかりで、

しょうがねえ、10年、20年、30年て時間をかけて、
孤独に地道に続けてくしかねえな。。

なんてことを夢想していると、
福島からリンゴがとどいた。

大橋さんが信頼を寄せる”あんざい果樹園”のかわい子ちゃんたち。

その味わいが大橋さんのイメージとぴったり重なって、
なるほどね〜って美味しくいただきました。