2017 年 3 月 11 日 のアーカイブ

72ヶ月め

2017 年 3 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から2,192日め
6年
72回目の11日です。

今日のボクは東京の代々木公園の脇にある”はるのおがわプレーパーク”で
この街に暮らす子どもたちと大きな絵を描いています。
http://harupure.blogspot.jp/2017/03/311.html?spref=fb

時を同じくして気仙沼では6年続けられてきた「3月11日からのヒカリ」という鎮魂のイベントで、
イラストレーションを活用していただける光栄をいただいています。
http://311hikari.jp/livecommentary/

3月18日からは岩手県の宮古で26日までの展覧会が始まり、
初日18日はやはり街のみなさんと大きな絵を描くワークショップを開催します。
https://www.hokkori385.com

2011年春、未曾有と言われた震災の被害を目の前にし、
少なからずの人が困難な立場に置かれた人のために立ち上がり、
しかし、ほとんどの人が無力感の谷に突き落とされたようではなかったかと。

ボクは「義援」という『困っている人に対し当たり前に行う名も無き行為』を自分の出来る範囲で行ったら、
あとは自分の目で足で「被災」を知ること、
さらに、被災の向こう側、被災地と呼ばれぬ場所で生きる無力の1人ひとりに向き合い、
凍りついてしまったようにしている心を温め、お互いの元気をわずかでもいいから確認し、
そんな無力や微力を結集させることでしか得られ復興のあり方を模索してきたはずです。

誰かに頼ってしまうとパーソナルな視点がズレてしまう。

ひとりだからこそ出会えるひとり

それはとても大きなことなんじゃないかなと、
目的地も持たずひとりで薄暗がりの中を走っていた感じです。

それが「あの日」から時を重ねる中、
わりとすぐそばを誰か走っている気配を感じるようになり、
さらに時を重ねその姿を目の端に捉えるようになり、
あれから6年めの春は、ついに並走者と声を掛け合えるようになった。

そんな感じです。

毎回のようにここで語ることですが、
絵に出来ることはほんとこれから。

「被災地」と呼ばれる場所、
宮古で自分の描いたものを持ってゆくのは大変勇気のいることで、
少なからず怖さも感じていますが、
そこに共に走っている人の姿を捉えられるようになった今、

許されるのであれば、
自分の描いた絵が思いっきり働いてくれたらいいなと願っています。

先日は宮城県で養殖漁を営む共栄丸さんと、
直売所のある市場の看板を制作する話を進めていました。

しかし、現地で関係している人の多い現場、
いくつかの条件を満たさず計画は頓挫。

でもこういうことは東京の価値観を押し付けてはならぬことで、
あらためてコミュニケーションを深め、
さらに現地の方々の必要とするものを探って、
さらに良いものを作ってやろうじゃねーか!と、
気合だけは十分に、されど焦らずやってゆくつもりです。

そんな共栄丸さんから、悲しい報せ。

市場の前にあった海が無くなったとのこと。

計画されていた防潮堤が完成し、
海が見えなくなった。

それは事前に分かっていたことだけど、
なんだろ、この喪失感。

ただただ悲しい。

もちろん人命が優先されることなんだけど、
しかし、春に海を失うことはただただ悲しい。

ボクは海に関係のない場所で生まれ育ち、
大学に入るために東京に出てきてみたら、
やはり海に育った人は海をまとっていて、
それがどうにも魅力に感じたんだよね。

海の無い場所で生まれ育ったボクは、
その魅力の意味がわからず、
それがどういうことか追いかけているうちに、
たとえば西表島の誰もいないようなビーチに腰掛けていたり、
やはり誰もいない早春の葉山のビーチで石ころを拾ったり、
長崎の稲佐山から遠くに軍艦島をみつけため息ついたり、
瀬戸内をあてもなく漂泊したり、
諫早の干拓地で海を探しにどこまでも歩いていってみたり、
宮城県の塩釜で出会った人からカモメを見た思い出を聞いたり、
福島の美しいビーチで灯台の灯りを追いかけたりして、

ずいぶん時間がかかったけれど、
その魅力は海だったんだと思うようになりました。

海に育った人は、
空と海とのわずかの隙間で生きてることを知っている。

地べたの上でしか生きることの出来ない人間が、
空と海と地べたのキワを見極め生きること。

それは日々生と死のキワを確認して生きることなんだろう。

猛々しく見える漁師のおっちゃんでさえ、
海の無い場所で生まれ育ったボクが持ち合わせていない、
慎ましやかではあるけれど仕立てが良く
気持ちよく風を通すシャツを一枚羽織っているように思えてならない。

目の前にあったはずの海を失うことはなにをもたらすのだろうか?

重厚な防潮堤は社会に死角を生み、
その陰で船上荒らしなどの犯罪が多発しているそうです。

悪しき心は弱き心を引き寄せます。

「壁」とは悪しきものを遮るけれど、
白か黒かの分断の向こうとこちらで、
それを大切に扱う限り人の魅力になりうる「弱さ」もただ否定され殺され、
悪しきもの餌にされ、結果悪しきものを増幅させてしまうのではないかな。

あらためて、
これは単に防潮堤を否定する話ではなく、
命を守るために必要なものは、
その必要を精査し造られるべきで、

ただ、春に海を失うことで人の心はどうなってゆくのか?

絵なんてものに生かされているボクは考え続けなければならず、
そこに必要があれば、出来ることをやらねば。
ということです。

まずは宮古の春の海と再会し、
考えを深めてきてみます。