2020 年 9 月 のアーカイブ

早川史哉さんの本

2020 年 9 月 30 日 水曜日

Jリーグのアルビレックス新潟に所属の選手 早川史哉さんと、
長年アルビレックスの広報として活躍されてきたフリーライターの大中祐二さんとの共著、
「生きる、夢をかなえる」を紹介します。

 『生きる、夢をかなえる 僕は白血病になったJリーガー』

発売日:  2020年10月03日頃

著者/編集:  早川史哉大中祐二

出版社:  ベースボール・マガジン社

発行形態:  単行本

ISBNコード:  9784583113173

これは使わなかったイラストレーション

まず、大中さんとは20年来の仕事仲間。
彼がワールドサッカーマガジンの編集に携わっていた時ご縁をいただき、
日本が初めてサッカーW杯に出場、そして日韓W杯が開催されるとい大きなうねりの中で、多くの仕事を共にしてまいりました。

日韓W杯を前に9回に渡る連載となった、ブラジル代表のロマーリオを巡るコラムは、結果ロマーリオが代表を外れるという切ない結末を迎えるのですが、
がしかし、この連載に関わる皆さんの情熱に押され、ボクは毎回訳の分からぬ絵を描き、それは恐ろしくヘタクソだけど熱々のページへと昇華。
誰かに評価をしていただくなんてことが関係なく、「いい仕事したな〜」という実感だけが今も残っている連載となりました。

「サッカーとボク」を語っておけば、
部活ではバスケやバトミントンを選んだ自分ですが、
三浦知良という人がブラジルから帰ってきたというニュースに出会い、
『この人を見続けていたら、新しい日本人像というものに出会えるのではないか』と考え、日本代表や黎明期のJリーグのサッカーを見るようになり、その後の中田英寿の出現や、地方ローカルで成功を収め続けてきた鹿島アントラーズのあり方などを通して、数多の新鮮な発想に出会い重ねることが出来、今という時代を生きる力を手にすると共に、自分が描く「日本人」の姿を学ぶことにもなりました。

サッカーの専門誌でこんなん描かせてくれてありがと〜〜

当時のことに関しては、今回の出版に合わせて行われたインタビューで大中さんも語ってくれていますので、ぜひ覗いてみてください。
https://soccermagazine.jp/j2/17394667

ボクもそうだけど、大中さんもなかなか熱い人であります。

そんな大中さんが週刊サッカーマガジンの新潟担当になり「アミイゴさん、新潟熱いから一度来てみてください」と言われ、アルビレックス新潟を取材に行ったのが、2004年10月17日。



スケッチブックに描いたままを誌面見開きで使ってもらった。

「サッカーで新潟が変わってゆく!」
新潟スタジアム”ビックスワン”で出会ったのは、そんなサッカーの喜び。

個人的に応援していた鹿島アントラーズが負けてしまった試合だけど、
地方都市の未来をピッチに描くようなサッカーを通した取り組みにとても感激。

三浦知良を見ていたら、未来の地域作りに出会えた。

が、
この取材の1週間後に中越地震が発生。

スタジアムに集ったあの笑顔はどうなってしまうのだろうか?
こうしたことにイラストレーションは何が出来るのだろうか?

ボクのその後の活動の出発点のひとつは、大中さんに導かれ足を運んだ新潟の地平線から始まっています。


ギャラは義援金に回してもらった。てか受け取れないよな〜

勢いに任せて水彩で描いたビックスワンの絵。
ヘタクソだけど、こんな絵をブラッシュアップさせてゆくことが自分の仕事になってゆくはずだと実感したはず。

こんなご縁の先で、大中さんは新潟へ移住。
この魅力的なチームの力になるよう尽力してゆきます。

「その後もいろいろあったなあ〜〜!」の先で、
今回早川史哉さんの著作のお手伝いをさせてもらうことになり、
また「アミイゴさん、史哉くんに会いに新潟に来てください」と。

うっす。
もちろん行くっす!

去年の11月、霰(あられ)舞う極感の練習場で会った早川史哉さん、
とて魅力的な青年でした。

もともとU17の日本代表のキャプテンを任されるような資質の人です。

当時J1だったアルビレックスに入団し、将来を嘱望されるも、
白血病の診断を受け闘病。

しかし、今彼はまたプロとしてピッチの上に立っている。

それがどういうことか、
なぜ彼にはそれが可能だったのか。

三浦知良という人の背中を追っていったら、
今の時代を生きる上で必要とされることを実践してきた1人の青年に出会えた。

それはボクが考えるイラストレーションの仕事の最大の喜びではないだろうか。

やはり大中さんを通して仕事を共にさせていただいてきた、デザイナーの高橋さんから投げていただいたオーダーに対して、ボクは勝手にいくつかの暴走を行い、
頼まれてもいない絵を投げ返したりした仕事。

しかし、こんななんちゃーない絵を、大中さんはとても喜んでくれ、
てか、高橋さんも採用してくれ、
ボクとしても2004年の秋から始まった物語に、ひとつ答えることができたかなと。

ひとりのサッカー選手の語る困難を乗り越えた先の今。
そして未来。

「白血病」という強いワードに困惑する方もあるかもしれませんが、
読者の皆さんには、ひとりの魅力的な青年の「今」を知ることで、明日を生きる力を生むきっかけになればいいなと、心から思うのです。

それはきっと、大中さんにもボクにも言えることで、
この本をスタートラインすることで生まれる「明日」とか「10年後」なんてものが楽しみなのです。

114ヶ月め

2020 年 9 月 10 日 木曜日


今日は2011年3月11日から3,472日、
496週
9年6ヶ月
114回目の11日です。

熊本県で7月4日の発生した豪雨被害。
その被災地3カ所の保育園の子どもたちと絵を描いてもらいたいとの要請を受け、PCR検査陰性を確認直後、熊本に飛びました。

日本の沢山の自治体を繋ぐ”応援村“の『77億人えがおプロジェクト』の要請で、
くまモン夢学校“企画として開催のワークショップ。


小山薫堂さんが企画を牽引する中、松任谷正隆さんとのディスカッションの中で生まれた『77億人えがおプロジェクト』は、コロナ禍の中人と人の関係が希薄になりが世界を、こどもたちが描く笑顔の絵で元気にしてゆこう!という発想のもと動き出しました。


すでに2,000点ほど集まっている「笑顔の絵」は、ユーミンの名曲「守ってあげたい」に載せ、ミュージックビデオとしてNHKで放送される作品になる予定です。

が、
こんなタイミングで行って良いのか?
豪雨被害から2カ月弱のタイミングで迷惑ではないか?
もしくは、いただいたテーマ「笑顔」が子どもたちにとって先回りし過ぎではないか?
中には笑顔どころじゃない子どももいるんじゃないか?
そんなエクスキューズが頭を駆け巡ります。

東日本大震災以降絵を描くことを通して接してきた子どもたちから学んだことは、子どもたちの今をただただ抱きしめてあげる。

そんなだったので、
今回も「なにが生まれるかわからないけどいいですか?」との考えをご理解を頂いた上でのセッションとなりました。

現場では自分から自身の体調チェクをしてもらうようお願いし、感染予防を徹底。(「もうしわけないですが、体温計らせてください」のようなお心遣いの言葉をかけてもらうことが多いので、まずは自分から。)


そうした原則を足場に子どもたちと向き合ってみたら、
「今来ることが出来て良かった」と思えるセッションとなりました。

3日間で巡った球磨村、人吉市、芦北町の保育園。

それぞれのエリアの豪雨被害の惨状は、
たとえば福島県いわき市豊間で見た風景、
たとえば、岩手県宮古市鋤ケ崎で見た風景、
もしくは、熊本県益城町で見た風景と重なる
「壊滅」という言葉しか浮かばない風景でした。


ここで生まれ、豊かな自然環境の元 4年、5年と元気に育ち、
しかし、7月4日の夜に恐怖の夜を経験したした子どもたち。

保育園の先生方がしっかり向き合い、守ってきたんだろうね、
俺のような外部の異物が乱入しても、まずはしっかり向き合ってくれ、
笑顔も投げてくれ、
じゃあ絵を描くよ!となれば、グイグイの前に進んで行く。


が、アウトプットされる絵には、洪水の恐怖が絵具と混ぜこぜになって表現されているのも感じる。

が、オープンなコミュニケーション重ね続け、彼らが動かす手の勢いを加速させてゆくと、そうした「なにか恐ろしきもの」が「なにか美しきもの」へと昇華させちゃうのが、本来子どもが持ち合わせる力なんだろう。



笑顔を描くというお題を超えた、黒く塗り込められたりA4の紙の美しさ!


別の現場では、絵の具で黒く塗った手を紙に叩きつけるようにして塗っていた男の子がいて、でも「やりたいことはとことんやったらいいね!」見守り、その勢いのある表現に美しさも見つけられて、
でも一応先生に「彼はなにかあった?」と聞いてみると、
洪水の夜にものすごい恐怖の体験をした子なんだって。


が、絵を描き終えてしまえば笑顔爆発させた元気でいい子に戻っている。



しかしBOY、君はいつもいい子でいる必要は無く、
憤る気持ちがどうにもならなければ、また絵の中で暴れれば良いよ。

紙を叩く手が人に向かってはつまらない。
しかし、紙に向かえばそれが君のアート。


そして、こんなワイルドなセッションを経験した保育園の先生たちは、
これからも君のアートに付き合ってくれるはずだぜ!



笑顔も恐怖もどちらも子どもたちの表現。
そのどちらも否定するすることなく、受け止めることの大切さ。

何より、描いた笑顔の絵以上に、心と体を振り切って描いた子どもたち1人ひとりの笑顔こそが、本来オトナたちが子どもたちと作って行くべきものなのだろう。


子どもたちの描く笑顔に癒されている場合では無く、子どもたちが笑顔でいられるよう目の前にあるやるべきことやってゆかねば。



しかし保育園の先生たちの愛に溢れた尽力を目の当たりに、俺もまだまだやらなー!と思えた熊本子どもセッション。

芦北の保育園では、1階の広い保育室が被災して使えず、しかし復興に尽力する親御さん達を助けているという避けられぬ理由もあり、2階のスペースをフルに活用し保育を行っていました。



園長先生に発災時から今まで、そしてこれからも続くであろう苦労話しをうかがい。その全てが子どもたちを守るということに向かっていることを知り、ただただ胸を締め付けられるばかり。
東京で(東日本の現場なども知りながらも)ぼんやりとしてしか感じられなかった被災は、ひとりの話をうかがうだけでその輪郭を確かにし、想像を超えた実像を心に叩き込んできます。


しかしメディアはどうしても「大規模な絵」を求めてしまうわけで、
そうしたことを批判する以前に、静かな心でひとりの言葉に触れるようなことをしてゆかねばと、あらためて痛感。

子どもたちに笑顔を描いてもらうというファンタジーのような企画だっけど、
ボクは笑えぬ子どもたちもいるであろうことを想像し、彼らのリアルにだけフォーカスしコミュニケートした。
そうして見えたものこそ、未来笑顔を創る力になるはず。

現場を繋ぎ構築してくださった皆々様、ありがとう。

どこの現場でも、車で現場を去るボクたちに手を振り続けてくれた人たち。
また会いに行き、ありがとうを伝えます。

その前に、お世話になった球磨村、人吉市、芦北町、そして津奈木町へラブレター

使い道あったら使ってみてください。

人吉ではボランティアセンターとなっているホテルに寄って、色々お話を聞けたのだけど、コロナで外部からボランティアの受け入れが出来ない中、県内の学生のネットーワークを構築して、かなり素早いボランティア組織を形成した実行力に関心。
ほんと、誰かにお伺いを立てるなんてこと以前に、目の前の困難は誰かが排除しなくちゃって、これはリアルに命の問題。

で、やはりこういう現場に駆けつける人たちは、なんつーか人として色気があるんだよね〜。


そんな現場で気仙沼で会ったお兄さんと再会。
だよな、俺たちはこういう場所で再会する仲間なんだよなと、お互エールを送りあい、次の台風を心配し、別れました。