157ヶ月め


今日は2011年3月11日から4,780日
682週6日
13年1ヶ月
157回めの11日です。

アップした絵は昨年7月に能登里山で見た昼顔の花。

能登里山の緑は、関東の緑とはちょっと違って見えて、
濃くも優しい緑、そんな印象でした。

この日は雨がパラパラ振ったりの曇り空でもあったので、
余計緑の優しがが印象に残ったように思います。

が、まだまだ描ききれないなあ〜、能登の緑。

この日はその後輪島塗の塗師の赤木明登さんの工房を尋ね、
その仕事の奥深さに触れたこともあり、
自分の絵の「まだまださ」に呆れてしまったのもありますね。

その時のことはこちら↓「まどをあけて」をごらんください。
https://www.daihatsu.co.jp/lyu_action/book/no07/madowoakete07/

そんな能登が大きな地震で苦しんでいる今、
赤木さんは輪島塗を絶やさぬようにと、木地屋さんやご自身の著作の編集室や、
昨年大きな感動を頂いたオーベルジュ「杣道」の再建に向けて活躍されています。

今年の3月11日は、そんな赤木さんが工房を一時避難させている金沢へ。
そして夜は、やはり仮店舗で営業中の「杣道」で食事。


自分が今までいただいてきた食事の中でも、最高に肌の合うごはんを作らてれいる北崎さん、
そしてホールを担当されているこいとさんの健在を確認。

ともかく美味しくて豊かな時間で、
食後3人で話したことは「aikoのライブ、最高でしたよ〜!」みたいな他愛もないものだったけど、
まずは、ほんとこうして会えたことが嬉しかった。

で、次は能登で会いましょうと約束し、
次の日は土砂降り。

無理なく電車で行けるところまで行ってみようと、能登七尾へ。

七尾も変わらず土砂降りで、
輪島湾を見て、靴をずぶ濡らせて、美味しいうどんを食って帰ってきました。

視線を転じれば大変な風景が目に飛び込んできますが、
今自分に出来ることは少なく、無力を感じるばかり。

ただ、今後自分がやるべきことは確認出来たかなと。
少なくとも能登の緑を描けるようにはなりたいです。

そして次の週は宮城の塩釜>気仙沼~唐桑>福島~飯舘>会津~喜多方と巡り

13年前の春から、1人、1人と知り合ってきた方とお会いし、
お互いの健在を確認し、喪失を慰め合い、また元気で会おうと約束し、
津波被害から新たな再建を図ったお店では、開店10周年を祝いました。

能登でもそんな1人との出会いが続いてゆくことを願っています。

 

 

 

4月14日 前橋でワークショップ開催


4月14日日曜日に群馬の前橋の中央通り商店街のアーケードの下の
無印良品の前で”オトナワークショップ”開催します!

小池アミイゴのだれでも絵が描けるワークショップ
「だれで描ける1本の線から生まれる物語~オトナセッション」

・4月14日(日)
・前橋市中央通り商店街_無印良品前
・11時~ ・14時~ (各回15分前より受付開始します)
・参加費2,500円
*画材等こちらで用意しますので、
手ぶらで、絵の具で汚れてもOKなオシャレで参加ください。

予約フォーム
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSc4t1JtnjMpGs6HPJwsg6KoXSgpzbgnH-7v2iWEvUO0R1oGCA/viewform

表現することの気持ちよさを体験し、気持ちのよいオトナが増えたらいいなと願い、日本中で開催している絵遊びのワークショップ。

「だれでも描ける1本の線から、1人ひとりに埋まっている美しき物語を表現。終わってみればみんな湯上がりのようにサッパリした顔になれるはずです、よっ。

今回作家の絲山秋子さんの「わたしもやってみたい!」のお言葉から企画スイッチON !!
(絲山さんは11時の回に参加予定)

「わたしは絵が描けないから〜」という人こそウエルカム!
心も体も解放される絵遊び、ぜひご参加ください。

TIS理事長退任のご挨拶。

小池アミイゴは昨日3月29日ののTIS年次総会を持って
一般社団法人東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長を退任、
次期理事長をサイトウユウスケ氏に引き継ぎました。
なお併せて理事も退任しております。
理事長の5年間を通し叱咤激励を投げかけてくださった皆様。
縁の下の力持ちとして協働してくださった歴代事務局スタッフの皆様。

ありがとうございました。

5年間の理事長職を務める中で、自身の属人的な働きは事務局の機能へと落とし込み、会の執行責任や方向性を決める理事は新たな顔ぶれであるべきと、昨年春の理事会で次年度理事選挙の免除特権を行使する旨を伝え、緩やかなランニング期間を設けての引き継ぎとなりました。

サイトウさんはまだお若いですが、今の日本のイラストレーションを代表する作家として、TISの新鮮な顔になってくれると信じております。

ただ、自分のような働きをさせるわけにはいかず、自分は引き続きサイトウさんや事務局のバックアップを続け、また渉外担当のような役割を通し、自分みたいな者を生かせてくれたイラストレーションに貢献してまいりますので、皆様どうぞこれまでと変わらぬ無茶振り丸投げをよろしくお願いいたします。

小池アミイゴ、
趣味は「火中の栗を拾う」特技は「矢面に立つ」であります。
理事長の5年間は、実に曖昧だった「TISとは」の言語化を探る5年でもありました。

1988年に強力なイラストレーターの作家団体として結成されたTISですが、当時は「世界で最も元気な日本のイラストレーション」のような言葉が踊っていたことを記憶しています。

が、その後のバブル崩壊や出版不況、リーマンショックを受け、また、フルデジタル化やネットメディアの登場、アニメやコミックとイラストレーションの境界線が溶けたり多様性が広がり深まる中で、TISの強力な作家集団というアイデンテティは、イラストレーションのあり方と共に再考の必要が生まれました。

それは安西水丸さんが理事長のまま急逝された10年前に顕著となったはずです。
自分でも確かな言語化が出来ていない「TISとは」を探るため、何度も会員のヒアリングの場を設け確認したTIS会員になる大きなモチベーションは2つ「仕事を増やしたい」と「情報交換のための交流」でした。
TIS会員になるためには、プロのイラストレーとしての一定の基準が設けられています。

そうしたことから導き出した「TISとは」

『プロのイラストレーターが1人では解決出来ないイラストレーションの仕事をする上での課題を、現役のプロのイラストレーターが集い、それぞれの最先端の知見を束ね解決することを目指す、日本で随一のイラストレーターの会』であり、

8年前には一般社団法人格を取得したことで、その活動に公益性も求められる団体ということです。

ボクは地方を巡ることが多く、そこで出会うのは「イラストレーターって何?」「イラストレーションってお願いしたら描いてもらえるんだ!」「アーティストさんなんですね、好きなことで生きているって素敵ですね〜」そんな「イラストレーターって仕事を知らない」人ばかりです。

ただ、同一の業種の者が集い、その仕事に貢献するために、たとえば一般社団法人のような会を結成することで、初めて「イラストレーターって職業なんだ!」と気づく人は少なからずいます。

ある意味、会に所属してくれるだけで、イラストレーターという職業に貢献していることになり、社会人としての信用を得て、自身の仕事が確かなものへと育つ。

それはイラストレーターという一見キラキラして見える人たちを思うと極論に聞こえるかもしれませんが、実はあらゆる職種がそうやって自分たちの姿を見せて、仕事を確かなものへと育ててきたという事実があります。

そうした考えの元、それまでよく語られた「TISをもっと盛り上げよう」という発想は、自分の仕事の下位に置くことにしました。

こうした自分の振る舞いに反発を覚えた方も多くおられたはずですが、しかし、一時は退会者が急増した会も、今年初めて300名まで会員を増やし、その顔ぶれでもって新たなTISを形作る足場が「やっと」固められるに至っております。

今後は若い力をフルに生かし、そして必要があれば多くの経験を重ねてきた先達の知見を引き出し、イラストレーションというものがイラストレーターにとってより幸せなものに育つよう、オープンなコミュニケーションのハブとしてのTISを構築してくれることを心より願い応援してまいります。

それはイラストレーションに真に貢献する”TIS3.0“の登場を意味するはずです。

最後に、
自分は理事長を務める間、「イラストとは〜」みたいな発言を一切封じてきました。
また議論の場で「〇〇さんが言ってたけど、」だったり「たぶん、きっと、だと思う」という言葉を使わぬようにしてきました。
また、自分はアイデアを考えるのが好きな方かと思いますが、それ以上に自分のアイデアを超えた発想に出会うことに喜びを感じたTISでの活動だったことを期しておきます。
実は弱音を吐きたいこともあったはずですが、

まあ今更グジグジ言っても仕方ねえ。

だけど、一枚の写真分だけ甘えさせてください。
TIS理事長に就任した2019年夏、3週間の台湾取材中に疲れていた自分のために呼んで下さったマッサージ師さんと、翻訳アプリで交わした会話のスクショが残っていて、先日見つけてひとり苦笑いをした次第です。
TISの小池アミイゴページ
仕事発注承ります。

156ヶ月め


今日は2011年3月11日から4,749日
678週と3日
13年め
156回めの11日です。

先日、渋谷区うちの近所のパン屋のカフェに居合わせた仙台在住の方と話し込むことがありました。

震災直後から東北に行くようになったこと。
そんな中で、まだ小さかった息子に初めて寿司を食わせたのが仙台だったこと。
その際、お店の常連さんにとても良くしてもらったことなどなど。

共通の知人の名前も数名上がり、話は絵本「うーこのてがみ」について。

この絵本は、アートプロジェクト「鮫ヶ浦 水曜日郵便局」と連携し創作したこと。

プロジェクトの舞台は津波被害の大きかった宮城県東松島市の宮戸島であり、
絵本を制作する際に取材に行ったこと。

うーこのモデルは、宮戸島と松島湾の挟んだ対岸の塩釜で、
わかめの生産をされているご家族の長女であること。

彼女とは震災から1年10ヶ月後の塩釜港の復興市場で出会ったこと。
その際に白詰草を描いたポストカードを手渡したこと。

家に帰って間もなく、彼女から手紙が届いたんだけど、
そこには彼女の白詰草にまつわるパーソナルな思い出と、
震災直後ご主人の仕事場である松島湾の海から見上げた空に、
カモメが何事も無いよう飛んでいる姿に希望を感じた話が書かれていて、
自分はそこで「被災」と「復興」の意味を自分なりに言語化出来たこと。

自分はすぐに塩釜に行き、彼女に会って、
「ご主人さんの仕事場見てくるね!」と松島湾へ。
そこで見たカモメの姿を描いた絵がきっかけで、

「とうだい」という絵本の作画担当が決まり、
熊本でのアートプロジェクト「赤崎水曜日郵便局」の書籍の表紙を担当し、
そのプロジェクトの母体である「つなぎ美術館」での展覧会、
さらには「鮫ヶ浦水曜日郵便局」に紐ついた「うーこのてがみ」の制作に繋がったこと。

「うーこのてがみ」はうーこが友人との手紙のやりとりを重ねることで、
今自分が生きている場所の魅力に気がつくというファンタジー。
ボクは彼女から手渡され『人ひとりが生きるに必要な大切なこと』を
リアリズムを持ってこの物語にこめています。

さらに、同じ絵柄で塩釜の市場の壁画も作成したこと。

しかし、その壁画も「うーこのてがみ」も、彼女には見てもらえなかったこと。

震災直後から家族の力になろうと奮闘してきた彼女は、
ボクに家族が営む海産物のブランディングの仕事を投げてくれたり、
塩釜でのボクの展覧会も計画してくれていたんだけど、

頑張りすぎたんだろう、
2018年夏に急逝されてしまった。

こんなお話を初めて会った人に夢中になって語っているのは、
2024年3月11日の自分は、昨夏能登で出会った人たちと会う約束をしているからだろう。

2011年3月11日以降に出会ったことは、
自分に多くのことを与えてくれた。

それをどのようの形で次に手渡してゆくのか。

あらためて見つめ直す、
あれから13年の11日です。

155ヶ月め


今日は2011年3月11日から4,720日
674週2日
12年11ヶ月
155回目の11日です。

2024年2月11日は大分県別府の鉄輪で壁画制作を行っています。

そんなわけで、このブログは後日書いているのですが、
11日から14日までの作業で、知人が新たにオープンするお店の壁に菜の花を描きました。


ボクよりちょっと先輩の和田さんは、
東日本大震災をきっかけに職を失うも、
その人柄が引き寄せる「出来る」仲間たちの助言を受け、
築地で「おかみ丼々 和田」というお店を始めました。
2012年、和田さんが60歳の時です。

うどん屋での修行で身につけた自慢のお出汁で作るどんぶりメシの店は、
お客様のニーズに応え、良い酒と美味いおばんざいの楽しめる店へと成長。
熱烈なファンを獲得することになります。

しかし、コロナによるパンデミックで足踏み。
やはり多くのお客様の力で持ち堪えるも、
ご自身の人生を考え、2年前に鉄輪へ移住。

この2年間に彼女を慕い鉄輪を訪れる方が急増。
地域の方にも慕われ、協力も得て、
72歳になった今、この地域の新たな拠点として店を、
古い建物をリノベーションし作ることになりました。

築地時代はボクの展覧会によく足を運んでくださり、絵を購入してくれたり、
ボクの友人で、東北での被災から再建した生産者さんと繋がってくれたり。

そんなご縁に対して「店が出来たら絵を描きに行きますよ!」と約束。

さらに、大分に移住した作家で大工仕事もする友人を紹介。

ざっとこんな理由でボクは鉄輪で菜の花の絵を描いているのです。

大国入った友人とは、
東京で大分で、ライブイベントや展覧会などなど、
自分たちが本当に美しいと思える場所作りをしてきました。

東日本大震災の余震で街がグラついていた2011年4月には、
まさに花の絵の展覧会を一緒に作っていたなあ〜。

そんな彼との久々のコラボは、とても嬉しくとても緊張感のあるものです。

また、ボクは和田さんに請われてここに来たのですが、
だからって自分勝手な絵を描くわけにはいかず、
ともかく、関わるみんなとコミュニケーションをとって、
関わるみんなのベストとなるものを作らねばです。

そのために、鉄輪の街を歩き回って、ここがどんな場所なのか、
ここに足を運ぶ人が求めるものがなんであるのかをキャッチ。

そしてまた関わるみんなとの会話。
そこから感じる熱を頼りに答えらしき方に向かって筆を動かしてゆきました。

この作業の背景には「今後能登をどう描けばいいのか?」というエクスキューズが、
渦巻いていたはずです。

2011年3月11日から続けてきたことは、ひたすら考え続けるってことなんだろうか。
いつも同じところをグルグル回っているだけで、
しかし、その時々で出会う人や空の色、道端に咲いてる花なんてものが、
まだまだ考え続けないといけないぜ!と語ってくれて、
そうだね、しょうがねえ、まだまだグルグル考え続けるしかねえな。
と。

和田さんが新たに生きる場所で、
自分のこれからをグルグルと考えることの出来た創作の美しき時間。
ありがとうございました。

店が出来るの、楽しみ!

 

群馬の太田で「はるのひ」原画展

絵本「はるのひ」のふるさと群馬で原画展と絵本の販売を行います。
初日2月4日は在廊しますので、みなさんぜひお運びくださいませ。
小池アミイゴ「はるのひ絵本原画展」   
2024年2月4日(日)-27日(火)
14:00-20:00
休_水・木・2月16日              
アトリエみちのそら
群馬県太田市新田木崎町596
東武伊勢崎線木崎駅より徒歩12分
tel : 080-3414-0013
昨年の前橋に続き、今年も群馬県で「はるのひ」の原画を見て頂けるチャンスを得ました。
今回お世話になる「みちのそら」さんは、優れた絵本の紹介を地道にされている場所です。
まだまだ寒い日が続きますが、立春から本格的な春の日まで、みなさんと駆けて行けたら幸いであります。

震災後の子どものための絵のワークショップ


絵のワークショップをやるようになって20年以上経ちますが、
2011年3月11日の東日本大震災発災後に「子どものためにワークショプを開催してくれ」との声が増え、
それに対して基本的にすべて引き受けています。

お声掛けくださるのは個人から行政まで様々。

その際「講師料はいくらでしょうか?」と質問を受けますが、
それに対してまず「出来る範囲で考えてください」と伝え、
次に「一度やってまた同じようなことが出来るイメージを持って考えてみてください」と。
もし仲間がいるのなら、そのことを皆さんで考えられ、
その上でお金が無いというのであれば、無報酬でも引き受けます。

このことで重要なのは、自分が報酬を得ることでは無く、子どもたちが笑顔になれること。

こんな確信を持って活動するのは、やはり東日本大震災以降で、
それは未曾有と言われた悲劇に対するボクなりの闘い方なんでしょう。

ただ、こうしか経験は、自分の仕事にリアリティをもたらし、
ボクやボクの家族、さらには自分が属するコミュニティを確かななものにする力になっているはずです。

写真は12年前の3月に気仙沼で開催したワークショップ。
この時は共に行動する仲間を得て、大漁旗に絵を描くワークショップとして開催しました。

その時のワークショップをアーカイブしたブログ
https://yakuin-records.com/amigos/?p=7542
震災から1年後の気仙沼のことも綴っています。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=7578

今読み返すと、自分は震災後の混乱の中にあるし、
子どもと向き合い起きることに対して言語化が追いついていなかったことに気づきます。

そもそも全ての現場で行うことが初めて行うこと。

それはどんな状況でもまず飛び込んでしまう自分の良いか悪いか分からぬ資質によりますが、
こうした現場を重ねて行く中で言葉が追いついてきたこともあります。

この時の気仙沼の経験のひとつは、後ほどあらゆる現場で以下のように語るようになります。

震災から1年後の気仙沼で子どもと大漁旗に絵を描くワークショップをやったんだけど、
テーマは「学校や保育園や家でやったら怒られちゃうだろうけど、今日は好きなもの描こう!」ってね。
沢山集まってくれた中でも、オシャレした女の子3人組が最初からテンション高くてね。
何か叫びながらなんだけど、すごく綺麗な色を使ってオシャレな絵を描いてゆくので、
「キミたち、おしゃれだね〜!」なんてレスポンス返していったら、さらにオシャレを加速させて。
これは傑作が出来るぞ!って思ってたところ、1人の女の子の目つきが変わって、、
何するんだ!って思ったら、真っ赤な絵の具でベタっと「復興するぞ!」と書いたんよ。

それまで美しく楽しくおしゃれに仕上がっていた画面が台無しになっちゃって、、
でも「好きなもの描こう!」て言った自分はそれを否定するわけにはいかず、
「復興するぞ!だね〜」と声をかけたら、なんかその子の目が悲しそうなんよ。
で、「それ書いて楽しかったかな?今日は好きなものだけ描いていいんだぜ」
「今日みんなで描いた絵、めちゃくちゃオシャレで俺は元気になったぜ!」
そんな声掛けしたら表情が緩んで、ホッとした柔らかな表情を見せてくれた。

これはどういうことか考えたんだけど、
すべての大人が「復興」のために頑張っている。
それを見ている子どもたちは、自分の楽しいより「復興するぞ!」と書いた方が、
大人が喜んでくれる。もしくは安心してくれる。
そんな先回りした考えがあったんだろう。

大人に連れてこられた絵のワークショップで、それに答えるように「元気に」絵を描く姿を見せたら、
オトナが喜んでくれるであろう言葉を、険しい表情で書き殴った子どもたち。

すげーいい子たち。
だけで、俺は大人だから、君たちが好きな絵を描いて、出し切ってホッとした顔見せてくれるのが、
幸せなんだ〜

そのために気仙沼まで来たんよ。

もしくは熊本地震から3ヶ月後の熊本市内でのワークショップ。

その日は、大人たちが震災復興バザーをやっている隣のスペースで、
子どもたちと絵を描いてくださいというオーダー。

みんなで大きな絵を描きはじまたんだけど、
ひとりものすごく反抗する子がいる。

ボクはこの子とほぼマンツーマンでのコミュニケーションになってしまったのだけど、
反抗の意味が掴めないでいる。

彼女の反抗は絵を描くのを楽しんでいる子たちのマインドも揺るがしちゃって、、
これはもう無理だと、
このワークショップはその子とボクがガチで向き合う姿を他の子に見てもらうものでいいやと、
さらに徹底的に彼女の反抗的なアクションに付き合う。

と、絵の具をベターっとつけた紙パレットをキャンバスに投げつけ踏みつけ、、
「そこまでやれば気持ちいいだろう!」と言って、
その子が紙パレットを剥がすと、それがとても綺麗。
「おい、それ綺麗だなあ〜!」と伝えたら、初めてニヤっとだけど笑って、
親がいる部屋の方に走っていってしまった。

いや、すごい暴れん坊だったなあ〜と思って、
その日の夜のバザーの打ち上げのような会場で言ってみると、
さっきの子がニッコニコで募金集めをやっている。

なんだ?すげーいい子じゃん。

彼女を知る大人に聞けば、彼女の家は地震の被害が酷かったそう。

そうか、
彼女は大人たちが復興のために奮闘するバザー会場に連れて来られて、
そこでバザーのお手伝いをせず、絵を描くワークショップに参加させられた。

オトナが復興に向けて頑張っているのに、
私は子どもだからって絵を描いて遊ばなければならないの?

彼女の反抗のエネルギーはそんなだったのだろう。
それは夜の表情でわかった。

でも、
絵を描くワークショップの現場で絵の具を投げつけたことでアウトプットできたことがあってこその、
夜の表情とも言えなくないかな。

別れ際に「ありがとー」と、いわゆる子どもらしく朗らかに声をかけてくれたことで、
なんだが自分も救われちゃったぜ。

熊本では同じタイミングで別の場所でもワークショップをやったんだけど。

そちらは親と子が一緒の現場で、子どもたちは親の視線に守られて安心して出し切っていった。

自分の子どもたちとのワークショップでは、
アートは手段であり、
目的は子どもたちの心の中で蓋をされてしまった恐怖の記憶のアウトプットだったり、
この先の未来を生きるための「気持ちの良い自分」の発見だったり、
子どもたちとと日常を共にする親やコミュニティの関係性の更新だったり。
そんなことを確信的に思えた熊本でも2本のワークショップでした。

そして、
12年前の気仙沼も、8年前の熊本も、今自分が暮らす東京も、2024年の能登も、
すべては自分の中では地続きであり、
もし自分のような者でも必要とされるのであれば、画材を担いで向かいますよ!
ということです。

154ヶ月め_能登へ


今日は2011年3月11日から4,689日
12年10ヶ月
154回目の11日です。

1月1日に発生した能登半島地震。
今日11日の段階で、213名の方が犠牲になり、
まだ安否がわからない方も多数おられるとのこと。

これ以上被害が広がらないことを願うばかりであります。

能登は昨年7月にご縁をいただき、
その際にお世話になった方が現地から情報発信して下さっています。

ただただ厳しい現地の状況に触れ、
災害救助の能力を持たぬ自分の無力を知るばかり。

ほんとみなさん、どうかご無事であってください。

自分で出来ることとして、
東日本大震災の時のアクションを踏襲し、
能登で地震のあった夜、義援活動に使えるデザインの配布を始めています。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=15978
↑リンク先の画像やこちら↓の画像は自由にお使いください。


また、
この画像を使ったポストカードを印刷し、
SNSで募った希望者に配布しました。

現在在庫が少なくなってしまっていますが、
もしご希望あれば増刷し送りますので、ご遠慮なくお申し付けくださいませ。
(これらの活動はすべて無償で行っております。)

元旦の16時台に発生した地震なので、
日本の多くの家庭で、普段テレビを見ない人がこの悲劇を目の当たりにしたのが、
東日本大震災以来の状況ではないかと想像します。

仕事で日本各地を巡って気がつくのは、
日本で暮らすほとんどの方は心優しき人であること。

そんな方の想像力を揺すぶらせてしまうのも、
自然災害の恐ろしさと考えます。

東日本を振り返れば、
当時は1年で3万人を超える人が自殺していた時代でした。

日本に暮らす多くの方が生きづらさを感じていたところに、
多くの人命が失われてしまう事態が起きた。
さらには、生活が破壊される事故が起きた。

自分は被災されその瞬間困難に直面されている人と共に、
この瞬間こころを痛めた被災と対岸にある人のことも想像しました。

多くの人が悲惨な映像に接し心をフリーズさせていることは想像出来ます。
そんな1人が小さなアクションを起こすことで、心を1mでも動かすことの重要さを直感し、
誰でも使える日本列島の絵を描いて、3月11日の夜にネットでシェアしました。


今回も同様のアクションを行ってみると、
やはり東日本の時と同じくらいのリアクションを頂き、
能登半島地震に多くの方が心痛めておられることが実感出来ました。

自分のこれまでの経験では、
被災に対して人ひとりが役に立てるフェーズは必ずやってきます。

それが何年後になろうとも、
今困難な状況に置かれている人に対する想像力を失わない限り、
力を必要とされる場面は訪れます。

メディアから伝わる義援活動は、個人の能力を遥かに超えた数字で伝えられたりします。
「〇〇さんが数千万円の寄付を行った」みたいなことですね。

それは素晴らしいことですが、善良な1人がそうした情報に潰される必要は無く、
1人の人間として想像力が途切れぬ分母の小さな働きを考えることも、
困難な状況にある方を助ける力になると信じてもらえたらいいな〜

日本に暮らす心優しき誰か1人が、
今困難に直面している誰か1人の笑顔を作れたら、
それはものすごく大きな力に育ちます。

今は復興では無く、救助と復旧の段階ですが、
いつか復興の段階に入った時、
1人に生まれた笑顔が、そのまわりの人を助ける力になる。

そんな想像を被災の対岸で育てることは、
たとえば、今多くの場所で起きている義援活動の現場に、
風通しの良い会話が生まれることで確かなものになるはずです。

1月2日には近所の仲間のコーヒー屋リトルナップコーヒースタンドが、
正月休みを返上した募金活動を、ボクの絵使って始めました。

自分も駆けつけてみると、
ちょっと驚くくらいのお金が集まっている。
のだが、
それ以上に後から後から駆けつける人たちが無言で募金し、
しかし、その後はみなさん語り合っている。

この意語り合っている風景こそ力だなと。

募金の送り先は北陸出身の店主に安心してお任せ出来ます。
そして、もしこの街で災害が起きた際は、
そこに助け合って生きようとする仲間を想像することが出来るのが、
このような活動の意義のひとつです。

自分の活動を振り返れば、
今から31年前の3月に実家を焼失したところから始まっています。

東京から群馬の実家に駆けつけると、
近所の名もなき人々が余計なことを口にせずただ家族を助けてくれている。

義援とは人が生きるに必要な空気や水を無言で分け合うようなことだ。

その時の実感が、阪神淡路の無力感、
初めてボランティアに参加した中越地震、
実際に自分も被災した福岡東方沖地震、
自分に守るべき子供が出来た直後の東日本を経験し、
自分の当たり前に育ってきて、今があります。

残念ながらXのようなSNS上では、言葉の殴り合いが始まってしまっているのは、
東日本の直後と似ています。

ただ、当時Twitterで語られたことは、
被災エリアで苦しんでいる人が見ることは無く、
(そもそもじーちゃんばーちゃんまだスマホ持っていなかった)
なんとういうか、持論に対する承認欲求が渦巻いていただけのように思えました。

今回の地震では、能登の方が情報に対しての予防線を張っている印象です。

被災の対岸にあると認識されている方におかれましても、
情報の接し方に気をつけて、大切なことは信頼おける人と確認し合い、
心の平穏と被災者への想像力を維持されることが、
災害との戦い方のひとつのように思うのです。


あらためて、
昨年の夏の始まりに歩いた能登の里山の美しさを思うと、
心締め付けられるばかりの今です。

失われたものは取り返しようが無く、
またこれからも多くのものが失われてしまうはずです。

それでもそこに救いを見出すのが人であることは、
東日本でボクが学んできたことです。

災害救助に従事されておられる方のご健闘と、
困難に向き合う皆様の安全を心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

 

能登半島地震


余震と津波、ともかく身を守って。
落ち着いた行動をされてください。
ニセ情報に振り回されぬよう、
正しい情報を見極め役立ててください。
自分として何が出来るか考え続けます。

画像はご自由にお使いください。


昨晩より被災の状況が見えてきたので、
絵に添えるテキストを更新しました。

昨晩から今日にかけて「絵を使わせてください」の問い合わせが増えてますが、
これに関しては自分への確認は必要ありませんので、ご自由にお使いくださいませ。

153ヶ月め


今日は2011年3月11日から4,658日
665週3日
12年9ヶ月後
153回目の11日です。

先月の11月11日は岩手県紫波町の地域フェスに参加していて、
震災から初めて?もしくは2度目のブログを書かない11日になってしまいました。

今年は特に休む間もなく色々続いて、、
自分がやるべきことが出来ているのか危うく思うも、
ともかく必要とされる現場に導かれることこそ、
自分が生きている意味だろうなと。

行く先々では、東京では得られないゆったりとした時間を過ごす瞬間もあるわけで、
ご縁をいただく方に感謝すると共に、やはり自分の出来ることを全力であります。

ちょっと視線の角度を変えれば、
世界は戦争や紛争が絶えること無く。
そうしたことに対して己の無力を感じるも、
そうしたことの手前、
自分の手の届くところではやれることがあるぜ!と。

どんなに小さな事でも、良きものへ変えられるよう、
心も体も使ってゆこうと思うばかりです。

岩手県紫波町でお手伝いしたのは「ひづめ百年文化祭」2DAYS

伝統芸能とヒップホップダンスやeスポーツ、自分のワークショップや各種手仕事の出展者、程よい飲食の出店ブースと、
とてもバランスの良い企画でした。


それはこの街の成り立ちや地域性によるものだろうね。

今回三泊四日で得た情報量が多くて、どの写真を選べは自分が感じた「良さ」を伝えられるのか悩んだのだけど、悩みながら自然と「奥行き」みたいなテーマにフォーカスしてゆきました。

歴史的な奥行きは、えんぶりやさんさ踊りと子どもたちとのダンスとの縦方向グラデが深くて。
さらに、ヒップホップダンスのようなものが100年後には田植え踊りのように伝統芸能と呼ばれている世界線が見えたのが、面白かったなあ。

その縦構図と交差する横の奥行きが、この土地ならでは文化を醸しているのだろうと。
ひづめ100年文化祭の舞台は、1600年代に創建された平井家の邸宅。

八戸の飛び立ちとして南部藩の米の集配に携わった平井邸はともかく巨大。
街道に面した間口から奥へ奥へと連なる間取りは壮観!

その軒先から東に向かってまっすぐ荷物伸びる古い街道を歩くと、目の前に北上川。

奥州の舟運の大幹線として、豊かさや文化を運んで来た川。
そのさらに東を想像すれば、日の登る太平洋。

人が行き交うことが当たり前の宿場町でもあった土地は、今でも外から訪れる人に対してウエルカムであることを、身をもって感じた今回。

一泊目は日本の街づくりの先進事例として視察件数日本一を誇った複合施設OGALのオガールイン。
東北本線の紫波中央駅の目の前、そこから二階建ての施設が2棟、やはり奥行き深く連なり、そこに清潔で使い勝手の良い宿や体育館(紫波町はバレーボール推しの町!)、飲食店やマーケット、そして図書館と役場まで一緒になっている。

これらの施設はいきなり建てられたのでは無く、盛岡市から20分ほどという利便性を活かしたベッドタウンとして、まずは宅地開発を進めた上で、10年ほど前に生活インフラとしての施設を加えていったとのこと。
そんなん造ったら、他のエリアの地盤沈下が進んでしまいかねないのだが、結果、この場所に人が集う効果は町全体にゆっくりと確かに広がり、人口減を抑えるだけで無く、町全体に行き渡る生活費インフラの整備を進めたり、移住者を増やしたり、新たな産業を起こすきっかけになったり。

しかし建物が出来ても、それだけで上手く行くはずは無いよね。
そんな頭で役場や図書館の紹介もしてもらったのだけど、
なるほどー!紹介される人みなさんオープンなマインドで、自ら課題を見つけ解決方法を考えている言葉使いをされているんだよね。
図書館は高い天井と深い奥行きを持つ気持ちの良い建物なんだけど、そこには静かに音楽が流れていて、スペースによっては飲食店可能!
何より、本棚で面出しされている本の並びが美しい、楽しい、さいこー!
ここに本を並べた人は、やはりその通りの人だった。

ひづめ百年文化祭の実行委員長は、自分の池袋でのアートセッションに参加させてしてくれていたハンコ作家でもある天野咲耶さん。

3年前に彼女がなぜこの町に移住したのか、図書館の本棚を見て分かった気がしたよ。
という魅力的な町で、しかし国指定の文化財である邸宅や伝統芸能のような取り扱い注意のコンテンツも交えた地域フェスの実行委員長を、よそ者が勤める苦労は計り知れず。

しかし、良くぞ自分を導いてくれたなと。心より感謝とリスペクト。
ミーティングの際、あまりにも多くに気を遣っていたのだろうね、声が小さかったのでつい「結果声を出した方が、みんな困らないぜ!」と熱いエールを送ったのでした。
そんな自分は紫波町の奥行きの軒先に立ったくらいのものでしか無く、紫波町のみなさん、これからどうぞよろしくお願いいたします。

=追記=

岩手県紫波町でのひづめ100年文化祭、みんなでヤバい絵を描くワークショップ2day、爆発的終了。

サブタイトルは「岩手のシャイなワルイコのみんなー、俺にかかって来なさい。」だったが、
俺はこれで紫波町出禁か、、

先日の会津に続き、スイッチが入るのに時間のかかる子どもたち。
とても豊かな文化の裏付けとお子さんを大切にする土地柄。
しかし、ほったからかしにされたら凍死してしまう冬の厳しさのある土地で、モラルのあり方は熊本や静岡とは当然変わってくる岩手。(雪の深い奥会津も似てる)
色んな要因でシャイ、というか、奥ゆかしい振る舞いの子どもが育つのだろうね。
それは否定されるものでは無く、しかしなぜ大谷翔平は岩手から現れたのか?

お子さんを見守る親御さんとのコミュニケーションと距離感に気を使い、子どもたちがまとっているモラルみたいなものを一枚一枚剥いでいったら、子どもはやっぱ子どもであり、大谷翔平のような存在になれる可能性はみんな持ってるぜ!と。
歴代最強の絵が仕上がった。
いつもより気温の低い現場で、いつも以上に慎重に進めたことも良かったのかもね。
ともかくこんなにもワイルドな現場作りが出来て、ありがとう!紫波町。
あ、同時進行のオトナ向けワークショップ。
終始俺からステイがかかるほど、前へ前へなオトナナたち。
うん。
子どもたち心配無し!
PEACE!!