48ヶ月め

宮古市閉伊川河口585
今日は2011年3月11日から1,461日め
4年
48回めの11日です。

本日2015年3月11日発行の「岩手日報」の紙面と、
ウエッブサイト「いわてのテとテ」上で、
岩手県の宮古を歩いて描いたペイティングやドローイングで構成する
東日本レポートが掲載されます。

岩手県宮古市出身のレゲエシンガーリクル マイさんが昨年暮れに発表した
震災後の被災者の心情を唄った「きたぐにのはる」という曲を頼りに、
2月28日の宮古の街をマイさんと言葉を交わしながら歩き出会った風景。

岩手日報紙面は岩手県内だけの展開ですが、
「いわてのテとテ」では作品掲載と共に
取材リポートやムービーを見ることができます。
http://iwatenote.iwatte.jp

震災後に初めて足を運び、今回が4回目の宮古でしたが、
「ひとり」を知り「ひとつの唄」に出会うことで
見えてくる風景にも奥行きが生まれたようです。

今回のことでボクがなにか答えを出すなんてことは出来ないけれど、
今回生まれたものが「あの日」からのみなさんの心情を写す鏡のようであればと願い、

被災地と呼ばれる土地の向こう側で暮らすみなさんにとっては、
これをきっかけに美しき土地「きたぐに」に足を運び、美しき「ひとり」と出会う、
そんなきっかけになってくれれば幸いに思います。
MIYAKO2015047

今回の宮古歩きで紙面には反映されないことをいくつか。

今回の旅のきっかけとなった「きたぐにのはる」
http://www.yakuin-records.com/amigos/?p=11063 (1月のブログで紹介しています)

27日、28日とあったリクルマイさんのライブでは唄われませんでした。

27日は1ヶ月前やっと再開された宮古市市民文化会館大ホールで開催の
「ふるさとに贈る」と題された歌謡ショー。

岩手日報主催で地元企業や個人の出資で行われた無料コンサートには
地元出身の歌姫4名が出演し、定員を超えた1050名もの人が足を運びました。

リクルマイさんをはじめ出演者のみなさんは、
震災後の避難所を巡り、被災された方々のケアに明け暮れた人ばかり。

そして、みんな唄がハンパなく良いのだ!
地声を民謡で鍛えた先の「港町演歌」みたいな世界観、サイコー!

そんな出演者は、1050名を前にしても、1人ひとりに唄を届ける姿勢がプロ。
で、実際に客席を巡り握手、握手、握手。

CD売れない時代?そんなのカンケーねー!って心意気だから、
そりゃもう集まったおっちゃんおばちゃんたちは
孫や姪っ子を愛しむように彼女たちの唄を愛でる。

宮古は竜宮城?
なんて素晴らしい風景なんだー!ってね。

そんな現場でリクルマイさんは今売り出し中の民謡レゲエをぶっ放すも、
被災者の「ひとり」の心情を綴った「きたぐにのはる」は唄わなかった。
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空けて28日は街中のコミュニティースペースを利用し、
ボクのワークショップとリクルマイのライブ。

彼女のライブの音はそのまま商店街のスピーカーから流れるっている、
これもまた最高の唄の風景!

マイさんの母さんが町の人に声かけてくれたり、
近所のおじさんがご祝儀持ってやってきてくれたり、

悲劇があったから行われたはずのライブは、
しかし、街が人が本来手にするべき唄の姿を魅せてくれた。

そしてここでも「きたぐにのはる」は唄われなかった。

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あの日から4年をめぐる報道では、
「復興」という言葉がその進捗の程度がどうであれ
跋扈しているイメージなんだけど、

被災者の心情を丁寧に大胆にトレースした
「きたぐにのはる」という唄がうたわれなかったという「静けさ」こそ
この土地に暮らす人々の「4年の月日」は未だ「昨日」であるという実感と
「復興どころじゃない」今の心情を透かして見せてくれたように思いました。

コンサートに足を運ぶどころじゃない人も多くいるはずです。
その分足を運ばれた方々は実にハツラツとした表情を見せていました。
そんなハツラツの隣に未だ痛みや悲しみ憤りなんてものが張り付いているイメージ。
(それがどれだけのものかなんて言葉に出来ないのだけど)

ではなぜ彼女はこの唄を生んだのか?

ボクはその意味に気がついているはずだけど、
これはもっと未来に言葉にしてみます。

ともかく彼女はこの唄をうたわなかった。

表現者としての彼女に深い尊敬を抱きつつ、
ボクの心の中でこの唄が宮古滞在から家に戻るまでずっとループしたままで、
彼女は「唄わない」という素晴らしい表現をボクに与えてくれたんだと思っています。

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今回の宮古では、
思ったことは何でも言葉にしてみました。

実際は思ったことを一呼吸置いてだけどね、
勘違いや間違いも恐れず、まずは言葉にしてみる。

「飲み屋、どこもお客さんで一杯だね〜」
「復興ってなんすかね?」

それは信頼をおけるスタッフさんの存在がデカイけど、
失敗をしないとわからないことってあるなあ〜と、
「アミイゴってヤツ、わかってねえなあ〜」
それでいいんだと思いました。

「わからない」「無力」その辺を認めないと
きっと人ひとりに近づいてゆけない。

2011年3月11日は昨日のことのようにして存在するけど、
それでも4年かけて手に出来たわずかな個人的成長が
そんなマインドであるように思っています。

もちろん、それだから何かが解決するわけではなく、
一本の個人的スタートラインを引けたってくらいのこと。

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そして「復興」の意味をあらためて考えています。

去年は20年を前にした神戸や淡路で
出会った方々から1995年1月17日の話を伺うことが出来ました。

20年たっても「あの瞬間」を昨日のことのようにして語る人たち。

それ以前から、旅先でお話を伺えるお年寄りからは
戦争の記憶を聴かせてもらうようにしてきました。

それもまたスベテが昨日のこととして語られるように感じました。

恐怖や痛みや悲しみは消えることが無い?

ボクはどうやらそういうものだと信じているようです。

そんな恐怖や痛みや悲しみも自分なんだってことを理解出来ることが
まずは1歩。

そのためには生活の安定なんてものが必要になってくるはずで、
そういった部分での「目に見える復興」を後押しするのは、
それがどんなに些細なことでもいいから、
たとえば選挙の1票とかでも、
オトナと呼ばれる1人ひとりの責務なんだと思っています。

そうした先で、
被災の経験を、同じような苦しみに直面した人の力として役立てる、
そんなことが出来るようになれた時、
恐怖や痛みや悲しみは、
いつもしかめっ面しか見せないヤツだけど、
1人の人生と並走するパートナーになってくれやしないか?

パーソナルな復興のイメージ

これは間違いなくボクの身勝手な想像です。

しかしボクたちは「ひとり」が「ひとり」を知るコミュニケーションの現場を
絶えず創り続けてゆかねばならないはずで、

そう出来るために、
絵や音楽なんて表現が
4年後の今こそ本気で生み出されなければならないんじゃないかと、

まだまだ霞のかかった荒野の中で考えることでしかないのですが、
確信めいた実感を手にした宮古での時でした。

MIYAKO2015044

宮古滞在中は、
川崎の多摩川の河川敷の暗がりで失われたひとつの命を巡って、
無責任な報道が追いかけてきた時間でもありました。

思うに、
LINEで虚ろにつながっている18歳とか17歳とか、
それを報道したりコメントをしてるヤツも、
今すぐ宮古に来て俺と一緒に街を歩きやがれ!
そう思いました。

その上でつまらぬ考えが収まらぬのであれば、
俺の首を切ってみやがれ!みたいにね、

そう思わなければ
多摩川の河川敷で失われた13歳も
リアスの街で失われた「ひとり」「ひとり」も
その生きてきた時間があまりにも、
なんだ、くそー、
言葉が出ないぞ!バカ!!

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宮古
リクルマイさんのお父様が生まれた場所「アパート巨人荘」

大家さんが大の巨人ファンだからこの名前。

1階は流されてしまったけれど、
2階は今でも人が住んでいるって。

悲しいけれどよかったな、巨人荘。

宮古湾585

今回の企画は関係するすべての人の志が形になるもので、
しかし、やはりなにかの答えが出るものでは無く、
関係したすべての人ととことんコミュニケーションを重ねた先、
新聞紙面やウエッブサイトは完成しても、
ボクたちのコミュニケートは続いてゆくんだ。

そんな確信がなによりの財産のように感じています。

2015
0311
PEACE!!

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