羽田空港国内線第一ターミナル出発ロビー


放送作家で脚本家、くまモンの生みの親でもある小山薫堂さん企画で、
羽田空港国内線第一ターミナル出発ロビーで展開の「旅する日本語」
https://event.tokyo-airport-bldg.co.jp/tabisuru/

2016年、17年と、小山さんの旅にまつわる美しい日本語のエッセイに、
片岡鶴太郎さんが絵を添え、羽田空港にドン、ドン、ドン、と展示されてきた
一辺が4メートル超の11面のボード。

今年度4月1日からボクが絵を担当します。

小山さんからエッセイをいただき、
3点は過去に描いた絵から「ぜひこれを使いたい」と思ったものを選び、
あとの8点は、これまで撮りためた4万枚の写真からフィットするものチョイス、
それを素材に描き下ろしました。

小山さんのメランコリックだけど救いに満ちたストーリーに添えた絵ですが、
その背景には、沖縄で、福岡で、東京で、会津で、いわきで、塩釜で、
ボクが出会ってきた人たちが魅せてくれたストーリーが息づいています。

このストーリーがこれに出会う人のストーリーと共鳴し、
さらに美しい1人ひとりの旅の物語へと昇華してくれたらうれしいです。


小山薫堂さんと出会う以前から、この企画を素晴らしいと思い、
家族に「いつかここを担当したいな」なんて話をしていた現場。

今年の1月に小山さんから連絡をいただき、
ここの絵を描いてもらいたと伝えられた際、
つい「おお!」と声を上げてしまいました。

先日、設営の済んだ羽田に初めて行って、
エレベーターで出発ロビーまで上がって見て、
やはり「おお!」

11本のエッセイに11枚の絵が強度の高いデザインを与えられて並ぶ風景は、
ちょっと膝が震えてしまったくらい素晴らしい仕上がりでした。

しかも、南ウイングに11点。
それと同じものが北ウイングにも11点。。

壮観です。

が、
この言葉と絵に見送られて旅立つ人のことを想像すると、
その責任の重さにやはり膝が震えます。

絵の制作時期は今年の2月。

昨年末に父が危篤になり病院に搬送され、
その後何度か危篤と言われる状況を繰り返し、
ボクもできる限りのケアをしてきたのだけど、

しかし、なぜかこの絵の制作期間中の父は容体が安定していて、
入稿が終えたところで、結果最後の危篤となり、
やるべきことを出来たボクは父が息をひきとるまでの9日間、
これまでの人生の中で最も静かに父の側に寄り添うことが出来た。

昨年7月に脳梗塞で倒れた後、
一緒に九州に行くことを目標に頑張ってきた父だけど、
残念、ちょっとフライトを早まってしまった。

羽田のこの風景、見せてやりたかったぜ。。

この企画は、この羽田の現場で終わりでは無く、
みなさんから広く「旅する日本語」のストーリーを募ったり、
さらに翼を広げ、言葉や絵の可能性を探ると共に、
これから未来を生きて行く上で必要とされる真の豊さなんてものを
育ててゆけるものでもありたいと願っております。

今後の展開は逐次お伝えしてまいりますが、
まずはお時間合えば羽田空港まで、
飛行機に乗る用事が無くても、楽しんでもらえるんじゃないかな〜〜
です。

イラストレーション池袋セッションseason7

絵を描く事でコミュニケーションの扉を開き、
豊かな会話の花を咲かす時間。

毎月第2第4木曜日に池袋コミュニティーカレッジで開催の
イラストレーションのワークショップセッション。
スタートから4年め、4月12日からのseason7の参加者募集です。

募集要項は以下のリンクからご確認ください。
https://cul.7cn.co.jp/programs/program_701881.html

3ヶ月と6ヶ月のコースとありますが、
随時見学や体験も受け付けておりますので、
お気兼ねなくドアをノックされてみてください。


現在10~15名くらいの方が参加しているセッション。

絵を教える教わるというより、
お互いが学び合い掛け替えのない自分に出会ってイメージの現場です。

絵やイラストレーションを取り巻く状況だけでなく、
あらゆることが変わってゆく時代にあって、

『自分で見て、自分で考え、自分を表現する』
そんな力を参加するみんなで磨きあい、
その人だからこその線や色彩に出会ってゆきます。

絵が上手いとか下手とかではなく、
その人が描いたものだからこそ愛しい。

そんなことの力を信じて、
毎回みんな真摯な表情と笑顔を交互に爆発させ、
楽しく絵を描いています。

「わたしは絵が描けないから」
そんな人こそウエルカムです。

以下の写真は最近のセッションで生まれた参加者1人ひとりの自画像。

あーして、こーして、こんなんなってしまいましたが、
みんなの笑顔が最高の2時間でした。

父の言葉、父からの言葉。


平成30年3月17日に父 小池宏が亡くなりました。
昭和13年8月6日に群馬県で生まれて、享年79歳でした。

3月20日に親族のみの見送りの会を設けました。
生前にお世話になった皆様には、
ご報告が遅くなってしまったこと申し訳なく思うばかりですが、
静かな別れは父の願いでありましたので、
御香典等のお心遣いの辞退と共に、ご理解いただけたら幸いに存じます。

以下にこれまでの経過を記しておきます。

昨年7月9日に脳梗塞を発症させ群馬県伊勢崎市の三原記念病院に入院。
主に肢体の右側と喉に障害が見られ、発語に難儀するようになりました。

それでも闘病と共にリハビリを頑張っていたのですが、
8月20日にさらに脳梗塞を発症、
熱い希望であった家に帰ることが叶わなくなりました。

10月31日に在宅型有料老人ホーム アンボーリータへ入所。
併せて小規模多機能介護施設 平成の家を利用を開始。
生活全般のケアを受けながら、リハビリを続ける日々を過ごしていました。

しかし、12月8日に発熱。
その後一旦は回復に向かいましたが、
12月20日に肺炎の発症が確認され、伊勢崎福島病院に緊急入院。
家族として覚悟しなければならない状況であることを告げられました。

それから何度か危険な状況を向かえながらも、
若い頃から鍛えてきた強靭な体力と心臓をもって、
その生をつないできた父ですが、
3月9日に容体が急変。

その後さらに生を燃やし続けるも、
3月17日、ボクの確認では13時に、
初春の大地に雨水が染み込むような静けさと穏やかさをもって、
息をひきとりました。

音楽、特にクラシック音楽を愛した父の最期の一曲は、
ルービンシュタインのピアノによるベートーベンのピアノソナタ第八番ハ短調作品13「悲愴」
第2章アンダージョ・カンタビレ
演奏時間5分36秒。
残り42秒ほどのことろでピアノが軽やかに動くところでバイタルが消えました。

医師の死亡診断は、
妹が到着直後の13時58分

遺体は17日中に前橋メモリードホールに移送。

父が安置されていた部屋では、
父が生まれ育った土地の風景が思い浮かべられる最も父らしい曲、
ベートーベンの協奏曲第六番「田園」を流し続けました。

そして、
20日昼前に晩年に帰依をしたキリスト教に即したお別れの時を持ち、
その後親族によるお別れの集いを、無宗教の家族葬として執り行い、
前橋斎場にて荼毘に付すに至りました。


3月17日は、前日までの曇り空も晴れて、
父の愛した群馬の名峰たちが春の霞の中で優しくもキリッとその稜線を見せ、
父を見送ってくれているように感じたものです。

滞在していたホテルから病院まで、
粕川という川の土手を駆けていったのですが、
この川を10kmも遡れば、父の生まれ育った旧粕川村室沢という集落にたどり着くはず。
さらにその先を望めば、父もボクもそのシルエットを背負って生きてきた赤城山。
足元には菜の花や水仙など、父の愛した野の花が可憐に点在しているのを見ました。

父の言葉で最後に確認出来たのは昨年12月25日。

「もっと働きてえ」
「もっと人の役にたちてえ」

2002年8月に1度目の脳梗塞を発症するまでは、
ともかく仕事、仕事。
そして、仕事以外でも自分のことより人のために尽力し、
ごく個人的のことは1人で、
趣味を超えた山歩きの中に昇華していたような人です。

体の自由が制限されてからは、
クラシックミュージックへの心酔から憧れに繋がったはずの
キリスト教の学びが生きる支えであると共に、
他者の幸せを望み続きた晩年でありました。

後添いの方を4年前に亡くし、
その後はひとり暮らしを余儀なくさせてしまいましたが、
ボクの息子に愛を注いでくれ、
ボクとしては、父との間にどうにもならなく存在した齟齬も、
柔らかく溶けていった4年。

その人生を俯瞰してみると、苦悩に満ちた期間も長かったはずですが、
最後はほんと、春の始まりの時の柔らかな光を身に纏ったような、
穏やかな表情で逝きました。

その最晩年に父に寄り添い続けられたことは、
今後のボクの作るものに力強く反映させてゆかねばなりません。

昨年の7月から3月までの8ヶ月ちょっとの期間に出会ってきた、
医療、介護、行政、金融、葬儀などなどの仕事に就かれている方々、
その真摯な仕事ぶりと対応に頭がさがるばかりでなく、
絵を生業にしているボクでも見習うべき美しきマインドに出会えた期間でもあり、
父はその人生をかけてそんな出会いをボクに与えてくれたんだと。

父の「もっと働きてえ」「もっと人の役にたちてえ」という願いには、
「だいじょうぶ、こうしてベッドに寝てても、ちゃんと人の役にやってるぜ!」と
答えておきました。

人のためにその人生を捧げた父は、
経済的ななにかを一切残さず逝ってしまいました。

ただ、ボクが小学校3年生の時、
従兄弟のお爺様が亡くなったことで「人はいつか死ぬ」ということを受け入れきれないでいたボクは、
父や母、お婆ちゃんやおじちゃんおばちゃん1人ひとりに泣きながら「死なないでくれ」とお願いしていたのだけど、

父は「お前が死ぬ時まで生きていて、一緒に死んでやるからだいじょうぶだ」って、
アッケラカンと確信に満ちた口調で返してくれて、
子どもながらに「そんなことは出来ないだろう」と思ったけれど、
不思議と心が軽くなったことを記憶しています。

そんな言葉がボクをここまで生かしてくれてるし、
人生の事あるごとにボクを突き動かす力になっているはずだし、
震災以降ボクを東北方面に弾き飛ばしていった力にもなったはずだし、
ボクも息子にそんなアッケラカンとした力を手渡して行かねばです。

84ヶ月め


今日は2011年3月11日から2,557日
365週2日
7年
84回めの11日です。

そうタイプしているのは実は前日、2018年3月10日
今は入院中の父のベッドサイドにいます。

未曾有と呼ばれた悲劇から7年。

何千、何万という命が失われた悲劇を目の前に、
ボクの無力感は今も無くなることはなく、
しかし、自分の出来ることは「ひとり」と向き合うことだと考え、
出来ることをやってきた先での今でもあります。

そして今は父と向き合っています。

今日は若かりし頃の父が建てた家が消失した日から25年め3月10日。

明日はあれから7年の3月11日。

思うことが次から次へと押し寄せてきましが、
今は静かな気持ちであろうと、
iPhoneでヴェートベンの「月光」を流して
父と聞いています。
 

「福島こども芸術計画」のインタビュー


「福島こども芸術計画」の一環で行なった
福島の柳津の子どもたちとの5度のワークショップセッション。

それがなんであったのか、
先日受けたインタビューで語っています。
http://f-geijyutsukeikaku.info/archives/732

文字数の限られたインタビュー記事の中では、
どうしても強い言葉がチョイスされがちだし、
(冒頭、枕としてけっこう吠えてやがりますね、俺、、)
ワークショップのディテールまでは語っていないのですが、
言葉を引き出すのがとても上手い聴き手さんで、
この企画の芯の部分をかっ飛ばしてくれてると思います。

福島のいわきから来られたインタビュアーさんですが、
福島の方は、甚大なる問題に日々向き合い続けてきた分、
東京に暮らすボクなんかよりずっと未来を生きている。
そんな確信をもてたインタビューでもありました。

今回の企画をサポートくださった斎藤清美術館学芸補助員の
幣島正彦さんのインタビューも併せて読んでいただけたら、
ローカルで今必要とされるものが立体的に感じてもらえるはずです。
http://f-geijyutsukeikaku.info/archives/744

しかし幣島くん、こんなに若かったのね。。

彼に限らず、多くの方が疑心暗鬼とともにご尽力くださり、
別れ際には湯上りのような顔をしてくれてた企画。

子どもも大人の関係ないワイルド&PUNKに絵の具にまみれた時間。
ありがたいことです。

そして、
小池アミイゴの誰でも絵が描けるワークショップ成果展
「わたしの好きな柳津」
http://f-geijyutsukeikaku.info/archives/756
3月11日までやっています。

まだまだ7年目の春。
ボクなんかがやれることは、これから、これから。