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74ヶ月め

2017 年 5 月 11 日 木曜日


今日は2011年3月11日から2,253日め
6年2ヶ月
74回目の11日です。

アップした絵は、
現在熊本県葦北郡津奈木町のつなぎ美術館で開催中の展覧会に出品しているF40号の絵。

今年3月に津奈木町に行った帰りに見た
「3月21日17時37分の不知火の海」です。

去年の4月、今年の3月、展覧会開催の4月とボクはこの海に出会い、
その度その美しさに心を奪われるのですが、
今のところその視線はどうしようもなく観光客のものでしかありません。

今は『美しい熊本の風景との出会いに無垢に驚いている自分』を
面白がって筆を走らせているのだと思います。

熊本を描いた絵で構成された壁面の反対側には、
主に東北の沿岸部を描いた絵があります。

6年かけてジワリその土地に暮らす人を知っていった「東日本」

描いた絵の背景にはそんな人の暮らしや「生」が塗りこまれているはずだと、
ここ1年で描いた熊本の絵との対比の中で感じています。

熊本の南の町での展覧会の会期7月17日まで、
そこで出会う人との会話の先で、新たな視線を持って見える風景はあるかな?

ともかく答えを先回りすることなく、
1つひとつ確かめてゆこうと思っております。


つなぎ美術館での展覧会の設営から開催までの数日は、
津奈木町ととなりの水俣のホテルに滞在していました。

群馬で生まれ育ち、今は東京に暮らすボクにとって、
「水俣」を考えると必ず「病」という文字がセットになって浮上していました。

子どもの頃に白黒テレビの映像と一緒に耳にした「みなまた」という言葉。

『今ボクが生きている世界には痛みと共に生きている人がいる。』

それはどんな場所なのだろうか?

すべてがモノクロームの印象のまま「水俣病」の街を想像し続けて、
やっと、
やっとそこに立つことができました。


市街地から走ってゆくと、件の工場の敷地の広さを実感します。

その先でささやかなスケールの漁港に出会います。

丸島港

漁業が盛んであったであろう頃の残像を、
漁港を囲む街並みから感じながらも、
ただただ思うのは「いいところだなあ〜」ということ。


不知火からの海はどこまでも穏やかで、
すれ違う人はそんな海のリズムを纏っているのでしょう、
その姿をとても優雅なものに感じました。

そしてなにより、
もちろん水俣はモノクロームではなく、
豊かな色彩に彩られた場所だったという感動。

そんなの「当たり前」なのですが、
人の意識のほとんどは思い込みに支配されてしまっているんだということ、
あらためて確認しました。

そして、
先日行った岩手県宮古市の田老の漁港を思い返してもみました。

田老も丸島とで漁港としてのスケール感が重なります。

そこに多くの共通する美しさを感じながらも、
田老から失われてしまったものを丸島に見つけようとしたり、
水俣で起きたことがなんであったのか?
田老でお話をうかがった漁師のおっちゃんの言葉の寂しさを重ねて想像したり。

もちろん、なにかを分かるはずは無く、
分かったようなことも言えるはずなく、
そのどこまでものどかな風景に甘えさせてもらっただけの時間、
だったはず。

そんな風景との出会いがうれしくて、
結局つなぎ美術館まで13kmくらいを走ってしまったのですが、
その途中、水俣川で行われていた高校生のカナディアンカヤックの競技会が、
やはりどうにもエレガントに見えてね〜。

豊かさってなんだろう?

これまで何度も何度も繰り返して考えてきたことをあらためて考え、
それはその時設営中の展覧会のレイアウトに少なからずの影響を与えたはずです。

ボクは今回の水俣や津奈木に滞在中、
その直前にあった政府の復興相の東日本大震災に関する発言、
「また社会資本等の毀損も、いろんな勘定の仕方がございますが、25兆円という数字もあります。これはまだ東北でですね、あっちの方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております」
についても考え続けていました。

東北の太平洋沿岸部を巡ってきた自分。

東日本の東京に暮らす自分。

熊本県水俣市から津奈木町を往復して展覧会を作っている自分。

それぞれの自分が何を思うのか?
それぞれの自分で想像力の足りていないところは無いか?


昼間にカナディアンカヤックが滑り抜けていた水俣川は、
展覧会の設営の終えた夕暮れ時にはその姿もまったく変えていました。


沈みゆく夕日が演出する光の変化の中で、
数え切れぬほどの色彩を発見させてくれる風景。

その色彩の1つひとつを「何色」と語る語彙力を持たぬボクは、
バスを飛び降り、
ただ「わーー」と心で叫びながら水俣川の堤防を走ってゆきます。


夕闇迫る中、高校生のグループがカヌーを漕ぎだします。

不知火の海に穏やかに注ぐ水俣川。

カヌーの波紋は水面に現れると、
粘土に指で筋を入れたように、しばらくその姿を崩すことなく連なり、
さらなる色彩を魅せてくれた後、徐々に解けるようにして海に交わってゆきます。

ボクはこんな「質」の水に出会ったのは初めてだけど、
たとえば、気仙沼唐桑の入り江の奥の鮪立や小鯖なんて場所の海でも、
波の穏やかな時はこんな粘性の高い水に出会うことはあるのだろうか?

熊本で出会うタンポポの花は白いです。

西日本で未だ生息している日本の在来種だそうで、
「黄色はタンポポ」で育ってきたボクにはとても新鮮に、
しかし、出会ったこと無いくせに懐かしく感じられる花でした。

こんなささやかな場所にも自分の無知に出会える、
無知なるが上の出会いの喜びはありますね。

そんなことを考えて、あらためて、
たとえば人の命に関わる深刻な公害があったとして、

「これはまだ水俣でですね、あっちの方だったから良かった。
これがもっと福岡に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております。」

とは言えないだろう。

そんなこと言えないってわかっていても、
そんなボクこそ、実際に来るまで水俣はモノクロームの世界と認識していたわけで、

しかし、実際は想像力が追いつかないほど色彩が豊かで、
タンポポの花は白く、

つくずく想像力が働かない、
もしくは働かせないことは恐ろしいことだと思いました。

そんなことを東京の帰りまでに、
津奈木町で、熊本市内で、福岡で出会う人たちと話してみると、

九州の人にとっては「東北」は「FUKUSHAM」であることが多く、
それは
ボクが「水俣」と「病」をセットで考えていたことと重なり、

しかし今のボクは、
「東北」は「岩手県宮古市鍬ヶ崎」だったり「宮城県気仙沼市唐桑町鮪立」だったり
「福島県いわきし豊間」だったりがある場所であり、

「水俣」には「丸島」があって「水俣川河口」があって、
そこから8km走ってゆくと津奈木町で、
そこから坂を登ったり降りたりしてゆくと「赤碕」という場所がある。

そんな自分は「TOKYO」に暮らしているという以上に、
「東京都渋谷区の代々木あたりで、街のみなさんと声かけながら生きている」であるなと。

そのことを必死に伝えるボクです。

そうすると九州の友人はこう続けます。

「東北でよかった」とかじゃ無いよね、
「なんでそこに原発があり、なんでそこにチッソって会社の工場があるのか?」

東京という大都会に含まれて生きるボクが常に考えて置かなければいけないこと。
ボクは良い友人に恵まれています。

1997年に水俣湾は安全宣言がなされ、漁が再開されたそうです。

「奇病」と呼ばれるものが発生し、
しばらく経った1956年に水俣病が水俣市から公式発表され今日まで、
どれだけの尽力が重ねられてあのボクの出会った美しい海が帰ってきたのか。

水俣や津奈木町の方とお話すると、
みなさん「ここはいいところだよ〜」と語ってくれます。

ボクのようなものが「東北でよかった」なんて言葉を振り回してはいけないな。

たとえば、福島県双葉郡大熊町に生まれ育った人が、
たとえば、宮城県気仙沼唐桑町鮪立に生きる人が、
「ここはいいところだよ〜」と心から言える日が来ることを願い、

しかし自分は自分の無力を日々確かめ、足りない想像力を働かせ続け、
小さなものを創り続けてゆきます。


水俣の沿岸部を歩いていたら、
草に覆われた丘に見えたところが
実はそこそこ高さのある古い防潮堤でした。

なるほど、こんな巨大な建造物も、
時と共にこんなにも風景に馴染んでしまうんだ。

そしてもう一度、
岩手の田老の漁港のことを考えてみたけれど、

やはりまったく想像力が追いつてゆかない。

熊本県のつなぎ美術館で展覧会開催 4/29~7/17

2017 年 4 月 17 日 月曜日


人生初の美術館での展覧会です。
(しばらくこのポストをブログのトップに固定しておきます)

東日本から熊本へ 3月11日から始めたこと 小池アミイゴ展
2017年4月29日(土・祝) – 7月17日(月・祝)
水曜日休館日
熊本県津奈木町“つなぎ美術館”

入場料:一般300円、高・大生200円、小・中生100円
開館時間:10:00 ~ 17:00 (入館は16時30分まで)

=つなぎ美術館=
熊本県芦北郡津奈木町大字岩城494
電話:0966-61-2222
http://www.town.tsunagi.lg.jp/Museum/

東日本大震災の発生した2011年3月11日から考えてきたことは、
風景や花の絵、人の暮らしを描いたドローイング、
絵本「とうだい」の原画などに昇華しました。

今回はこれまで描いてきた作品や絵本の原画、ドローイングによる映像作品など、
88点の作品で会場を構成した展示をいたします。

ボクが3月11日からはじめたこと、そのすべてを語れるわけではありませんが、
風通しの良い絵の空間を創ってお待ちしておりますので、
みなさまぜひ「1枚の絵があるからこその生まれる会話の現場」として、
つなぎ美術館を楽しんでいただけたら幸いに存じます。

アーティストトーク
「ボクが3月11日から始めたこと」

4月29日(土・祝) 13時30分~14時30分
つなぎ美術館1階展示室
定員:50名(事前申し込み不要)
*終了しました。

ワークショップ
「小池アミイゴのだれでも絵が描けるワークショップ」

6月11日(日曜日) 13時30分~15時30分
会場:つなぎ美術館アトリエ
対象:小学生以上(小学生低学年は保護者同伴)
定員:10名(要事前申し込み・先着順)
参加費:無料

昨年発刊された”つなぎ美術館のアートプロジェクト”
「赤崎水曜日郵便局」のアートワークを担当したのがきっかけで、
今回のつなぎ美術館での展覧会のご縁が生まれました。

イラストレーターが美術館の壁面50メートルと格闘することは、
なかなか稀な出来事だったりします。

アップした写真は先日つなぎ美術館で撮影したもので、
壁面にかけられている絵はみんな100号くらいあるし、
そもそも壁面がこの倍くらいあるのです、、

そんなわけで、ものすごいプレッシャーを感じつつも、
昨年4月に初めてつなぎ美術館に行った直後に起きた熊本の震災のこと、
足繁く通っている東日本の各地のことなどを思うと、
この端正な空間で自分を表現することの責任や気持ちの高ぶりを
ありがたいこととして受け止めています。

ボクを知るほとんどの方にとっては、
熊本の津奈木町のつなぎ美術館は「わざわざ」あしを運ぶ場所なはずです。

ならばぜひ、つなぎ美術館でのボクの作品に触れていただくだけでなく、
自然豊かな津奈木町だったり、おだやかな不知火の海だったりを楽しまれてください。

もし、東日本の被災地なんて呼ばれているところを歩いた人であれば、
津奈木の漁港だったり水俣湾だったりも歩いてみて、
なにが失われ、なにが生き残り、ボクたちはなにを育ててゆけば良いのか?
そんな思いを巡らせていただけたらなあ、なんて思っています。

ともかくのどかで美しい場所です、熊本の津奈木町。

今年の初夏は熊本の南、津奈木町まで足を伸ばしてみてください。
不知火の海の自然の豊かさに抱かれた土地で、
ボクは2011年3月11日から始めたことを思いっきり表現しています。

72ヶ月め

2017 年 3 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から2,192日め
6年
72回目の11日です。

今日のボクは東京の代々木公園の脇にある”はるのおがわプレーパーク”で
この街に暮らす子どもたちと大きな絵を描いています。
http://harupure.blogspot.jp/2017/03/311.html?spref=fb

時を同じくして気仙沼では6年続けられてきた「3月11日からのヒカリ」という鎮魂のイベントで、
イラストレーションを活用していただける光栄をいただいています。
http://311hikari.jp/livecommentary/

3月18日からは岩手県の宮古で26日までの展覧会が始まり、
初日18日はやはり街のみなさんと大きな絵を描くワークショップを開催します。
https://www.hokkori385.com

2011年春、未曾有と言われた震災の被害を目の前にし、
少なからずの人が困難な立場に置かれた人のために立ち上がり、
しかし、ほとんどの人が無力感の谷に突き落とされたようではなかったかと。

ボクは「義援」という『困っている人に対し当たり前に行う名も無き行為』を自分の出来る範囲で行ったら、
あとは自分の目で足で「被災」を知ること、
さらに、被災の向こう側、被災地と呼ばれぬ場所で生きる無力の1人ひとりに向き合い、
凍りついてしまったようにしている心を温め、お互いの元気をわずかでもいいから確認し、
そんな無力や微力を結集させることでしか得られ復興のあり方を模索してきたはずです。

誰かに頼ってしまうとパーソナルな視点がズレてしまう。

ひとりだからこそ出会えるひとり

それはとても大きなことなんじゃないかなと、
目的地も持たずひとりで薄暗がりの中を走っていた感じです。

それが「あの日」から時を重ねる中、
わりとすぐそばを誰か走っている気配を感じるようになり、
さらに時を重ねその姿を目の端に捉えるようになり、
あれから6年めの春は、ついに並走者と声を掛け合えるようになった。

そんな感じです。

毎回のようにここで語ることですが、
絵に出来ることはほんとこれから。

「被災地」と呼ばれる場所、
宮古で自分の描いたものを持ってゆくのは大変勇気のいることで、
少なからず怖さも感じていますが、
そこに共に走っている人の姿を捉えられるようになった今、

許されるのであれば、
自分の描いた絵が思いっきり働いてくれたらいいなと願っています。

先日は宮城県で養殖漁を営む共栄丸さんと、
直売所のある市場の看板を制作する話を進めていました。

しかし、現地で関係している人の多い現場、
いくつかの条件を満たさず計画は頓挫。

でもこういうことは東京の価値観を押し付けてはならぬことで、
あらためてコミュニケーションを深め、
さらに現地の方々の必要とするものを探って、
さらに良いものを作ってやろうじゃねーか!と、
気合だけは十分に、されど焦らずやってゆくつもりです。

そんな共栄丸さんから、悲しい報せ。

市場の前にあった海が無くなったとのこと。

計画されていた防潮堤が完成し、
海が見えなくなった。

それは事前に分かっていたことだけど、
なんだろ、この喪失感。

ただただ悲しい。

もちろん人命が優先されることなんだけど、
しかし、春に海を失うことはただただ悲しい。

ボクは海に関係のない場所で生まれ育ち、
大学に入るために東京に出てきてみたら、
やはり海に育った人は海をまとっていて、
それがどうにも魅力に感じたんだよね。

海の無い場所で生まれ育ったボクは、
その魅力の意味がわからず、
それがどういうことか追いかけているうちに、
たとえば西表島の誰もいないようなビーチに腰掛けていたり、
やはり誰もいない早春の葉山のビーチで石ころを拾ったり、
長崎の稲佐山から遠くに軍艦島をみつけため息ついたり、
瀬戸内をあてもなく漂泊したり、
諫早の干拓地で海を探しにどこまでも歩いていってみたり、
宮城県の塩釜で出会った人からカモメを見た思い出を聞いたり、
福島の美しいビーチで灯台の灯りを追いかけたりして、

ずいぶん時間がかかったけれど、
その魅力は海だったんだと思うようになりました。

海に育った人は、
空と海とのわずかの隙間で生きてることを知っている。

地べたの上でしか生きることの出来ない人間が、
空と海と地べたのキワを見極め生きること。

それは日々生と死のキワを確認して生きることなんだろう。

猛々しく見える漁師のおっちゃんでさえ、
海の無い場所で生まれ育ったボクが持ち合わせていない、
慎ましやかではあるけれど仕立てが良く
気持ちよく風を通すシャツを一枚羽織っているように思えてならない。

目の前にあったはずの海を失うことはなにをもたらすのだろうか?

重厚な防潮堤は社会に死角を生み、
その陰で船上荒らしなどの犯罪が多発しているそうです。

悪しき心は弱き心を引き寄せます。

「壁」とは悪しきものを遮るけれど、
白か黒かの分断の向こうとこちらで、
それを大切に扱う限り人の魅力になりうる「弱さ」もただ否定され殺され、
悪しきもの餌にされ、結果悪しきものを増幅させてしまうのではないかな。

あらためて、
これは単に防潮堤を否定する話ではなく、
命を守るために必要なものは、
その必要を精査し造られるべきで、

ただ、春に海を失うことで人の心はどうなってゆくのか?

絵なんてものに生かされているボクは考え続けなければならず、
そこに必要があれば、出来ることをやらねば。
ということです。

まずは宮古の春の海と再会し、
考えを深めてきてみます。

3月11日は

2017 年 3 月 7 日 火曜日


あの日から6年めの3月11日は
渋谷区代々木エリアでは”はるのおがわプレーパーク”で
子どもたちとデカイ絵を描く作戦です!

『はるプレアートセッション』体を使って大きな絵を描こう!語らおう3.11

・日時:2017年3月11日(土)13:30~16:00
・対象:はるプレに遊びにきたコドモとオトナ
・汚れてもいいおしゃれでご参加ください
・画材等の準備の関係がありますので、ご参加希望の方は
 はるプレスタッフへご一報ください。
(Tel:03-3481-9661  mail: harupure@bb.knet.ne.jp)
*参加人数が多い場合はコドモの参加を優先させていただきます。

子どもたちが毎日遊ぶ渋谷はるのおがわプレーパーク。
3月11日という日を悲しむわけではなく、様々な事に思いを馳せ、再生や希望の日とする。
そのため『はるプレらしいやり方』で、私たちの中にある生きるための「元気」を確認し、
美しい「未来」を描く。
小池アミイゴさんと共に、1つの大きな絵を共同で描く事で、人との繋がりを感じ、
壊れかけた土壁倉庫の壁を覆う事で“アートでの再生”のシンボルを作ります!
描いた絵は当日はるプレ内に展示した後は、土壁倉庫の壁面に展示予定です。

とのこと。
詳細はこちら↓をチェック!
http://harupure.blogspot.jp/2017/03/311.html?spref=fb

そして気仙沼では。

震災後毎年3月11日に開催される鎮魂のアートアクション「3月11日からのヒカリ」

そのテキスト中継のページの扉のアートワークの指名を、
主催の斉藤道有さんより受けました。
クリック!> http://311hikari.jp/livecommentary/

友人より紹介を受けて2年ちょっと。

絵で気仙沼のみなさんの力になれること、
とても光栄に感じております。

「3月11日からのヒカリ」は集客イベントではなく、
気仙沼周辺の人が空を見上げたら3本の光を見る、
そしてあの日を、あの日からのことを静かに思う。

そんな企画のために
想像力を働かせる余白を大きくとった絵を描きました。

3本の光の見えぬ場所で暮らすボクらも、
静かに想像力を働かせる1日であれば良いなと願っております。

ボクは子どもたちと元気に絵の具まみれになってるのですがね、、

71ヶ月め

2017 年 2 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から2164日め
5年11月
71回目の11日です。

先日宮城県を中心に発行されている新聞「河北新報」に掲載された、
県内に暮らす18歳の人の投稿がネットでシェアされてきたのに出会い、
考えさせられました。

以下一部引用します。

2011年3月11日からの地震、津波、原発事故発生後、震災に意味付けをする人がたくさんいた。
「絆ができた」とか「家族を大事にするようになった」とか、建前でいう人がいっぱいいた。
だが、そんなものは震災前にだってあった。
震災が起きたことに意味なんてない。起きない方が良かったに決まっている。
だから私は、震災を都合よく語ったりしない。
あの日起こったことを、自分の記憶に刻む。ただ、それだけ。

まさにその通りだと思います。

もうちょっと言えば、
「絆」も「家族を大事に」も消費しやすい言葉に置き換えられてしまったなあと。
少なからずの違和感を感じて、まもなく6年です。

ただ、
2011年3月に13歳だった人にあやまらねばならぬことがあります。

震災の前に「絆」も「なにかを大事にする」こともあるにはあったけれど、
ボクたちオトナの多くはそれを大事にしていなかったはずです。

3万人が自殺をする国にあって、
「絆」なんてめんどくさいことなるべく考えにようにして、
それぞれがそれぞれの場所で演じるキャラを大事にするだけの、
とてもモロい関係性の中で孤立感を深めていた。

極端なたとえかもしれませんし、すべての人がそうであったわけでもないけれど、
しかし、それがボクたちだったのではないかと思うのです。

2011年3月11日、ボクたちは考えました。
考えざるを得ないものを見ました。

絶対的な喪失

しかし、
困難を乗り越える人間のしなやかな力強さ

ただその実感を共有することは容易なことでは無いとの直感は、
大きな無力感に変わり、多くは手付かずのまま今に至っています。

そんな中「絆」のような言葉に、ある意味すがってしまったはずです。

もしくは無自覚なまま「がんばれ」「立ち上がれ」なんて言葉を放つも、
結局自分自身を奮い立たせてるだけのおじさんたちとか、、

今18歳になった人の語る
『あの日起こったことを、自分の記憶に刻む。』

それだけの勇気を持てなかったボクたちです。

それでも願うことは、今からでも遅くない、
「絆」でもなんでも本当に大事にして育ててゆきたいなということ。

絶対的な喪失に対してなにか出来るはずは無く、
悲劇は悲劇のまま静かに胸に刻み、
しかし、ボクたちに足りていなかったものを1つひとつ確認し、
これから未来、特に18歳とか12歳とかの人にとって好ましい未来に必要とされるものに、
みんなして育ててゆけないかな。

18歳の人の静かな叫びに答えられるかどうか自信無いけど、
自信無い部分は、志を共にする人を見つけ、語り合い、
しなやかに力強いものへと育ててゆこうと思います。

以下、
先日東京-横浜での会期を終えた展覧会「東日本」から思うことをちょっと。

ボクのやっていることをザクッと言葉にされてしまうと、
『「被災地」と呼ばれる場所を歩いて絵にしている』です。

しかし、ボクはなにを見ているのだろうか?

4度めの開催となった今回、
あらためて自分の視線というものを考えてみました。

特に今回は、ギャラリーに足を運んでくださる方の多くが、
実に的確にボクが描いたものの本質的なものを言葉にしてくださり、
4度重ねてきた意味の深まりを感じながら、
自分の視線というものを知ることが出来たかもです。

生きる、というか、暮らす、という中で、
ボKうたちはものを見ているようで、
実はほとんどのことを思い込みで感じているんでしょう。

「見る」ということは「見なければいけない」という意識の指示で行われるのだけど、
その背景にある思惑で都合の良いものに置き換えられている。

意思を持って見てるものの多くは、
実は「見ているつもり」のものなんだろうなと。

なので、絵を描く場合も「見ているつもり」のものに惑わされて、
どうにも「見た」感動の本質に触れられないでいる座りの悪さを感じてばかり。

今回の展覧会を通して、
「わたしこの風景の場所に住んでいるんです」
「わたし、この風景の場所に行ったことあります」などなど、
リアルな既視感をもって絵とご自身の経験を語ってくださる方がいて、

そんな方の話を伺っていて気がついたのは、
ボクたちは目の端で見ているものが莫大にあって、
それは「見ているつもり」でいるものなんかより
ずっと多くの情報量をボクたちの無意識にもたらしてくれてるんだということ。

「見る」という意思の働かぬところで見ている「暮らしの風景」

それは大きな揺らぎと広大な曖昧さを有するものです。

たとえば車を運転して山道を走っているとします。

ボクたちの目は道路を見て、センターラインの位置を確かめ、
道路標識を確認しながら対向車を気にする。
たまにやってくる名所と言われる場所に視線を飛ばし、
時が進むにつれ変化する陽の光に対応し車をオーガナイズさせる。

そうやって視線を駆使させてゆくのだけど、
目の端で一瞬にして過去へ追いやられてゆく道路の脇の雑草や雑木林の灰色の風景、
なんちゃーことない人の家やつまらない庭木、見栄えのしない山並みや退屈な雲、
ぼんやりした午後の光や昨日だか一昨日に降った雨による小さな水溜り、などなど。

ユラユラ揺れて消えてゆく日常の風景。

ボクたちが想像力をそそぎ大切にし共有するべきものは、
こんなものの中にあるんだと気がつきました。

こじつけになるかもしれないけれど、
「復興」と言った場合、意思をもって視線を注ぎ造られる
防潮堤やかさ上げ工事や道路や病院なんてものがあるのですが、
もちろんこれはそれぞれの道のプロが取り組み、
その土地土地で必要とされるカタチで迅速に提供するべきものでしょう。

ただ、ボクのようなものがやるべきことは、
目の端に写っているはずの日常をどんなものにするのか?

非常に曖昧に揺れ動く領域ですが、
そこが1人ひとりの人生の揺りかごになるような優しきものであればなと。

「復興」の名のもとで開発の進む土地でも、
わずかの余裕を見つけられたら、
日常の中で目の端でとらえ消しとばしてゆく風景を、
ちょっとでも豊かなものに出来たらいいなと。

どうしようもなく微力ではありますが、
そんなものに光を当てる仕事を続けてゆこうと思っています。