‘風景’ タグのついている投稿

熊本県のつなぎ美術館で展覧会開催 4/29~7/17

2017 年 6 月 20 日 火曜日


人生初の美術館での展覧会です。
(しばらくこのポストをブログのトップに固定しておきます)

東日本から熊本へ 3月11日から始めたこと 小池アミイゴ展
2017年4月29日(土・祝) – 7月17日(月・祝)
水曜日休館日
熊本県津奈木町“つなぎ美術館”

入場料:一般300円、高・大生200円、小・中生100円
開館時間:10:00 ~ 17:00 (入館は16時30分まで)

=つなぎ美術館=
熊本県芦北郡津奈木町大字岩城494
電話:0966-61-2222
http://www.town.tsunagi.lg.jp/Museum/

東日本大震災の発生した2011年3月11日から考えてきたことは、
風景や花の絵、人の暮らしを描いたドローイング、
絵本「とうだい」の原画などに昇華しました。

今回はこれまで描いてきた作品や絵本の原画、ドローイングによる映像作品など、
88点の作品で会場を構成した展示をいたします。

ボクが3月11日からはじめたこと、そのすべてを語れるわけではありませんが、
風通しの良い絵の空間を創ってお待ちしておりますので、
みなさまぜひ「1枚の絵があるからこその生まれる会話の現場」として、
つなぎ美術館を楽しんでいただけたら幸いに存じます。

アーティストトーク
「ボクが3月11日から始めたこと」

4月29日(土・祝) 13時30分~14時30分
つなぎ美術館1階展示室
定員:50名(事前申し込み不要)
*終了しました。

ワークショップ
「小池アミイゴのだれでも絵が描けるワークショップ」

6月11日(日曜日) 13時30分~15時30分
会場:つなぎ美術館アトリエ
対象:小学生以上(小学生低学年は保護者同伴)
定員:10名(要事前申し込み・先着順)
参加費:無料
*終了しました。


(さらに…)

75ヶ月め

2017 年 6 月 10 日 土曜日


今日は2011年3月11日から2,284日め
6年3ヶ月
75回目の11日です。

アップした絵は以前描いた気仙沼唐桑の鮪立(しびたち)の集落と漁港。
津波で大変な被害を受けた場所ですが、
震災以前に撮影された写真と唐桑で出会った人の思い出話しを参考に描きました。

そんな話をうかがったのが鮪立の民宿「つなかん」

そこで料理人として働いていた竜介くんが、
「つなかん」を営む盛屋水産さんが育てたワカメを
東京の代官山で期間限定で販売する際、
この絵をポストカードにしてワカメに添えてくれてます。

・6月3、4日(土日)8~11 (木〜日)15~18(木〜日)
・14時〜20時
・ballena 代官山 
 〒150-0021 東京都渋谷区恵比寿西1丁目34−21 クレスト代官山302
 (東横線代官山駅徒歩2分、JR恵比寿駅から徒歩10分、UNITのすぐそばです。)

・主催:今井竜介 
・連絡先 sushi.to.oyster@gmail.com  
・協力:盛屋水産、池田晶紀、小池アミイゴ、鈴木歩、株式会社BambooCut、
・Ballena代官山、仕出し弁当きのこ、つなかんファンの皆様)
・FBページ https://www.facebook.com/events/1723291957969487/?fref=ts

=唐桑御殿つなかんとは=
宮城県気仙沼市唐桑町の小さな入江で、牡蠣の養殖業者が東日本大震災をきっかけに、始めた民宿です。
「御殿」の名前にふさわしい入母屋造りの一軒家。明るく、元気で、魅力的な女将さん。
家族で育てる牡蠣やホタテなどの海産物が食べられる宿でした。
しかし、そんな言葉では言い表せない魅力的な場所でもありました。
そのことが、この展示を通じて少しでも伝わることを願っています。
この3月に海難事故があり、社長含む家族3名がいなくなってしまいました。
それでも、残された女将さんは、再開に向けて動き出そうとしています。
今回、初めて、つなかんのことを知った方も、再開の一報がありましたら、ぜひ、唐桑を訪れてみてください。

http://moriyasuisan.com/

先日ちょっと顔を出して展示を見てきました。
そこに『明るく、元気で、魅力的な女将さん』いちよさんが、
海難事故からしばらく経ってとった行動について書いてありました。

海に生きるということ、強烈に知らしめられたこと。

それはここでボクが言葉にしてしまってはいけないように思います。
ただ、竜介くんが友人であってくれることで知る「人というもののなんたるか」
心に刻んで、これから創るものに反映させてゆこうと思います。


先日は会津へ。

昨年3月に初めて行って歩いた会津。

その際「これは初夏の風景を見ておかねば」と直感し、
今回梅雨入り直前のタイミングで行くことにしました。


前回は郡山から会津に入りましたが、
今回は特急が会津山田まで通った東武日光線を利用。

江戸-日光-会津 という江戸時代の必然を辿る道ですが、
それにしたって昔の人はよくもこんな深い山を抜けていったものだと。

会津山田から第三セクターの会津鉄道に乗り換えてゆくと、
会津は突然その姿を現すというイメージで、広大な会津盆地に出会います。

田植えが始まった季節の会津盆地は水の国。

この土地の豊かさに惹かれた昔の人々の気持ち、わかるな〜
(さらに…)

ワタリガニがやって来ました。

2017 年 6 月 8 日 木曜日


いつもお世話になっている宮城県塩釜で養殖漁を営む共栄丸さんから、
渡り蟹と牡蠣を送っていただきました。


渡り蟹は実際に渡ってきたところを捕獲。
養殖から一歩踏み出し、地域の味覚発掘中の共栄丸さん。

牡蠣はシーズン最後の旨味たっぷりの加熱用。
生食より加熱した牡蠣が好きなので、
待ってました!って感じで牡蠣フライ。


これはもう”大ご馳走”です。

共栄丸さんは、養殖の昆布やワカメ、牡蠣やホタテを地域ブランドどして育てると共に、
塩釜港から松島湾にいたるエリアを、万葉からの呼び名「千賀の浦」を復活させ、
地域のアイデンティティの軸にしようと取り組んでいます。

そして渡り蟹。

ごめんよ、カニくん、カニさん。
食べ方の下手なボクは家族のレクチャーを受けながら、
なんとかカニくん、カニさんを味わい尽くしました。


ありがとう、カニくん、カニさん。
渡り蟹と合わせて呑んだ酒が、いつもの数十倍旨く感じました。

カニの種類は色々あれど、
やっぱ一番好きなのは渡り蟹。

共栄丸さん、ありがとう。
(さらに…)

74ヶ月め

2017 年 5 月 11 日 木曜日


今日は2011年3月11日から2,253日め
6年2ヶ月
74回目の11日です。

アップした絵は、
現在熊本県葦北郡津奈木町のつなぎ美術館で開催中の展覧会に出品しているF40号の絵。

今年3月に津奈木町に行った帰りに見た
「3月21日17時37分の不知火の海」です。

去年の4月、今年の3月、展覧会開催の4月とボクはこの海に出会い、
その度その美しさに心を奪われるのですが、
今のところその視線はどうしようもなく観光客のものでしかありません。

今は『美しい熊本の風景との出会いに無垢に驚いている自分』を
面白がって筆を走らせているのだと思います。

熊本を描いた絵で構成された壁面の反対側には、
主に東北の沿岸部を描いた絵があります。

6年かけてジワリその土地に暮らす人を知っていった「東日本」

描いた絵の背景にはそんな人の暮らしや「生」が塗りこまれているはずだと、
ここ1年で描いた熊本の絵との対比の中で感じています。

熊本の南の町での展覧会の会期7月17日まで、
そこで出会う人との会話の先で、新たな視線を持って見える風景はあるかな?

ともかく答えを先回りすることなく、
1つひとつ確かめてゆこうと思っております。


つなぎ美術館での展覧会の設営から開催までの数日は、
津奈木町ととなりの水俣のホテルに滞在していました。

群馬で生まれ育ち、今は東京に暮らすボクにとって、
「水俣」を考えると必ず「病」という文字がセットになって浮上していました。

子どもの頃に白黒テレビの映像と一緒に耳にした「みなまた」という言葉。

『今ボクが生きている世界には痛みと共に生きている人がいる。』

それはどんな場所なのだろうか?

すべてがモノクロームの印象のまま「水俣病」の街を想像し続けて、
やっと、
やっとそこに立つことができました。


市街地から走ってゆくと、件の工場の敷地の広さを実感します。

その先でささやかなスケールの漁港に出会います。

丸島港

漁業が盛んであったであろう頃の残像を、
漁港を囲む街並みから感じながらも、
ただただ思うのは「いいところだなあ〜」ということ。


不知火からの海はどこまでも穏やかで、
すれ違う人はそんな海のリズムを纏っているのでしょう、
その姿をとても優雅なものに感じました。

そしてなにより、
もちろん水俣はモノクロームではなく、
豊かな色彩に彩られた場所だったという感動。

そんなの「当たり前」なのですが、
人の意識のほとんどは思い込みに支配されてしまっているんだということ、
あらためて確認しました。

そして、
先日行った岩手県宮古市の田老の漁港を思い返してもみました。

田老も丸島とで漁港としてのスケール感が重なります。

そこに多くの共通する美しさを感じながらも、
田老から失われてしまったものを丸島に見つけようとしたり、
水俣で起きたことがなんであったのか?
田老でお話をうかがった漁師のおっちゃんの言葉の寂しさを重ねて想像したり。

もちろん、なにかを分かるはずは無く、
分かったようなことも言えるはずなく、
そのどこまでものどかな風景に甘えさせてもらっただけの時間、
だったはず。

そんな風景との出会いがうれしくて、
結局つなぎ美術館まで13kmくらいを走ってしまったのですが、
その途中、水俣川で行われていた高校生のカナディアンカヤックの競技会が、
やはりどうにもエレガントに見えてね〜。

豊かさってなんだろう?

これまで何度も何度も繰り返して考えてきたことをあらためて考え、
それはその時設営中の展覧会のレイアウトに少なからずの影響を与えたはずです。

ボクは今回の水俣や津奈木に滞在中、
その直前にあった政府の復興相の東日本大震災に関する発言、
「また社会資本等の毀損も、いろんな勘定の仕方がございますが、25兆円という数字もあります。これはまだ東北でですね、あっちの方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております」
についても考え続けていました。

東北の太平洋沿岸部を巡ってきた自分。

東日本の東京に暮らす自分。

熊本県水俣市から津奈木町を往復して展覧会を作っている自分。

それぞれの自分が何を思うのか?
それぞれの自分で想像力の足りていないところは無いか?


昼間にカナディアンカヤックが滑り抜けていた水俣川は、
展覧会の設営の終えた夕暮れ時にはその姿もまったく変えていました。


沈みゆく夕日が演出する光の変化の中で、
数え切れぬほどの色彩を発見させてくれる風景。

その色彩の1つひとつを「何色」と語る語彙力を持たぬボクは、
バスを飛び降り、
ただ「わーー」と心で叫びながら水俣川の堤防を走ってゆきます。


夕闇迫る中、高校生のグループがカヌーを漕ぎだします。

不知火の海に穏やかに注ぐ水俣川。

カヌーの波紋は水面に現れると、
粘土に指で筋を入れたように、しばらくその姿を崩すことなく連なり、
さらなる色彩を魅せてくれた後、徐々に解けるようにして海に交わってゆきます。

ボクはこんな「質」の水に出会ったのは初めてだけど、
たとえば、気仙沼唐桑の入り江の奥の鮪立や小鯖なんて場所の海でも、
波の穏やかな時はこんな粘性の高い水に出会うことはあるのだろうか?

熊本で出会うタンポポの花は白いです。

西日本で未だ生息している日本の在来種だそうで、
「黄色はタンポポ」で育ってきたボクにはとても新鮮に、
しかし、出会ったこと無いくせに懐かしく感じられる花でした。

こんなささやかな場所にも自分の無知に出会える、
無知なるが上の出会いの喜びはありますね。

そんなことを考えて、あらためて、
たとえば人の命に関わる深刻な公害があったとして、

「これはまだ水俣でですね、あっちの方だったから良かった。
これがもっと福岡に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております。」

とは言えないだろう。

そんなこと言えないってわかっていても、
そんなボクこそ、実際に来るまで水俣はモノクロームの世界と認識していたわけで、

しかし、実際は想像力が追いつかないほど色彩が豊かで、
タンポポの花は白く、

つくずく想像力が働かない、
もしくは働かせないことは恐ろしいことだと思いました。

そんなことを東京の帰りまでに、
津奈木町で、熊本市内で、福岡で出会う人たちと話してみると、

九州の人にとっては「東北」は「FUKUSHAM」であることが多く、
それは
ボクが「水俣」と「病」をセットで考えていたことと重なり、

しかし今のボクは、
「東北」は「岩手県宮古市鍬ヶ崎」だったり「宮城県気仙沼市唐桑町鮪立」だったり
「福島県いわきし豊間」だったりがある場所であり、

「水俣」には「丸島」があって「水俣川河口」があって、
そこから8km走ってゆくと津奈木町で、
そこから坂を登ったり降りたりしてゆくと「赤碕」という場所がある。

そんな自分は「TOKYO」に暮らしているという以上に、
「東京都渋谷区の代々木あたりで、街のみなさんと声かけながら生きている」であるなと。

そのことを必死に伝えるボクです。

そうすると九州の友人はこう続けます。

「東北でよかった」とかじゃ無いよね、
「なんでそこに原発があり、なんでそこにチッソって会社の工場があるのか?」

東京という大都会に含まれて生きるボクが常に考えて置かなければいけないこと。
ボクは良い友人に恵まれています。

1997年に水俣湾は安全宣言がなされ、漁が再開されたそうです。

「奇病」と呼ばれるものが発生し、
しばらく経った1956年に水俣病が水俣市から公式発表され今日まで、
どれだけの尽力が重ねられてあのボクの出会った美しい海が帰ってきたのか。

水俣や津奈木町の方とお話すると、
みなさん「ここはいいところだよ〜」と語ってくれます。

ボクのようなものが「東北でよかった」なんて言葉を振り回してはいけないな。

たとえば、福島県双葉郡大熊町に生まれ育った人が、
たとえば、宮城県気仙沼唐桑町鮪立に生きる人が、
「ここはいいところだよ〜」と心から言える日が来ることを願い、

しかし自分は自分の無力を日々確かめ、足りない想像力を働かせ続け、
小さなものを創り続けてゆきます。


水俣の沿岸部を歩いていたら、
草に覆われた丘に見えたところが
実はそこそこ高さのある古い防潮堤でした。

なるほど、こんな巨大な建造物も、
時と共にこんなにも風景に馴染んでしまうんだ。

そしてもう一度、
岩手の田老の漁港のことを考えてみたけれど、

やはりまったく想像力が追いつてゆかない。

72ヶ月め

2017 年 3 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から2,192日め
6年
72回目の11日です。

今日のボクは東京の代々木公園の脇にある”はるのおがわプレーパーク”で
この街に暮らす子どもたちと大きな絵を描いています。
http://harupure.blogspot.jp/2017/03/311.html?spref=fb

時を同じくして気仙沼では6年続けられてきた「3月11日からのヒカリ」という鎮魂のイベントで、
イラストレーションを活用していただける光栄をいただいています。
http://311hikari.jp/livecommentary/

3月18日からは岩手県の宮古で26日までの展覧会が始まり、
初日18日はやはり街のみなさんと大きな絵を描くワークショップを開催します。
https://www.hokkori385.com

2011年春、未曾有と言われた震災の被害を目の前にし、
少なからずの人が困難な立場に置かれた人のために立ち上がり、
しかし、ほとんどの人が無力感の谷に突き落とされたようではなかったかと。

ボクは「義援」という『困っている人に対し当たり前に行う名も無き行為』を自分の出来る範囲で行ったら、
あとは自分の目で足で「被災」を知ること、
さらに、被災の向こう側、被災地と呼ばれぬ場所で生きる無力の1人ひとりに向き合い、
凍りついてしまったようにしている心を温め、お互いの元気をわずかでもいいから確認し、
そんな無力や微力を結集させることでしか得られ復興のあり方を模索してきたはずです。

誰かに頼ってしまうとパーソナルな視点がズレてしまう。

ひとりだからこそ出会えるひとり

それはとても大きなことなんじゃないかなと、
目的地も持たずひとりで薄暗がりの中を走っていた感じです。

それが「あの日」から時を重ねる中、
わりとすぐそばを誰か走っている気配を感じるようになり、
さらに時を重ねその姿を目の端に捉えるようになり、
あれから6年めの春は、ついに並走者と声を掛け合えるようになった。

そんな感じです。

毎回のようにここで語ることですが、
絵に出来ることはほんとこれから。

「被災地」と呼ばれる場所、
宮古で自分の描いたものを持ってゆくのは大変勇気のいることで、
少なからず怖さも感じていますが、
そこに共に走っている人の姿を捉えられるようになった今、

許されるのであれば、
自分の描いた絵が思いっきり働いてくれたらいいなと願っています。

先日は宮城県で養殖漁を営む共栄丸さんと、
直売所のある市場の看板を制作する話を進めていました。

しかし、現地で関係している人の多い現場、
いくつかの条件を満たさず計画は頓挫。

でもこういうことは東京の価値観を押し付けてはならぬことで、
あらためてコミュニケーションを深め、
さらに現地の方々の必要とするものを探って、
さらに良いものを作ってやろうじゃねーか!と、
気合だけは十分に、されど焦らずやってゆくつもりです。

そんな共栄丸さんから、悲しい報せ。

市場の前にあった海が無くなったとのこと。

計画されていた防潮堤が完成し、
海が見えなくなった。

それは事前に分かっていたことだけど、
なんだろ、この喪失感。

ただただ悲しい。

もちろん人命が優先されることなんだけど、
しかし、春に海を失うことはただただ悲しい。

ボクは海に関係のない場所で生まれ育ち、
大学に入るために東京に出てきてみたら、
やはり海に育った人は海をまとっていて、
それがどうにも魅力に感じたんだよね。

海の無い場所で生まれ育ったボクは、
その魅力の意味がわからず、
それがどういうことか追いかけているうちに、
たとえば西表島の誰もいないようなビーチに腰掛けていたり、
やはり誰もいない早春の葉山のビーチで石ころを拾ったり、
長崎の稲佐山から遠くに軍艦島をみつけため息ついたり、
瀬戸内をあてもなく漂泊したり、
諫早の干拓地で海を探しにどこまでも歩いていってみたり、
宮城県の塩釜で出会った人からカモメを見た思い出を聞いたり、
福島の美しいビーチで灯台の灯りを追いかけたりして、

ずいぶん時間がかかったけれど、
その魅力は海だったんだと思うようになりました。

海に育った人は、
空と海とのわずかの隙間で生きてることを知っている。

地べたの上でしか生きることの出来ない人間が、
空と海と地べたのキワを見極め生きること。

それは日々生と死のキワを確認して生きることなんだろう。

猛々しく見える漁師のおっちゃんでさえ、
海の無い場所で生まれ育ったボクが持ち合わせていない、
慎ましやかではあるけれど仕立てが良く
気持ちよく風を通すシャツを一枚羽織っているように思えてならない。

目の前にあったはずの海を失うことはなにをもたらすのだろうか?

重厚な防潮堤は社会に死角を生み、
その陰で船上荒らしなどの犯罪が多発しているそうです。

悪しき心は弱き心を引き寄せます。

「壁」とは悪しきものを遮るけれど、
白か黒かの分断の向こうとこちらで、
それを大切に扱う限り人の魅力になりうる「弱さ」もただ否定され殺され、
悪しきもの餌にされ、結果悪しきものを増幅させてしまうのではないかな。

あらためて、
これは単に防潮堤を否定する話ではなく、
命を守るために必要なものは、
その必要を精査し造られるべきで、

ただ、春に海を失うことで人の心はどうなってゆくのか?

絵なんてものに生かされているボクは考え続けなければならず、
そこに必要があれば、出来ることをやらねば。
ということです。

まずは宮古の春の海と再会し、
考えを深めてきてみます。