ばあちゃんの太巻き

ばーちゃんの太巻き
雑誌「家族」刊行に伴いメリーゴーランド京都で開催された展覧会
「記憶のレシピ」に出展した絵に添えたテキスト、
加筆してこちらに記しておきます。

「ばーちゃんの太巻き」

ガキンチョだったころ親が共働きだったので、
家から1キロくらいの母方のばーちゃんちに預けられてました。

明治生まれのばーちゃんはともかくよく働く人で、
養蚕業を兼ねた百姓仕事と家事を掛け持ちしながらも、
時間を見ては台所に立って、あんこを炊いて、つけもの漬けて、菜っ葉を茹でて、
うどんを打って、キンピラこさえて、天ぷらあげて、鯉をさばいて、
ボクはそんな1つひとつを食べて育ったのでした。
(ばーちゃんが鯉をさばく姿が恐ろしくて、それだけは今も苦手だが、、)

おやつは塩むすびやミソむすび。カレーもこさえてくれたんだけど、
ガキンチョのボクには辛かろうと、S&Bインドカレーに水溶き片栗粉混ぜてくれてね、
ネギは長ネギで醤油かけて食ってると、グルテンのゴロンとした固まりに出会ったり。
でも「孫にうまいもの食わせたい」て気持ちがガキンチョなりにうれしくて、
そんな気持ちこそ美味しさだったなあ〜。

そんなばーちゃんがいつも作っていたのが太巻きの海苔巻き寿司。

ごぼう、かんぴょう、椎茸の煮付け、卵焼き、キュウリ、桜でんぶが基本の具材。
たまに人参の煮付けや青菜が加わった太巻きは、海苔の切り口がピンと立った立派なヤツです。

冠婚葬祭朝昼晩と太巻き食ってたような。
ちょっとでも余れば「家に持ってけえれ」とか「◯◯さんちに届けてこい」とかね。

ばあちゃんを思うと、すっぱ甘い太巻きの匂いが心の底から沸き立ってくる感じ。

それでもボクも小学校、中学と進むにつれ、ばーちゃんの家とも疎遠になってしまい、
食の嗜好も牛丼とかハンバーガーなんつーことになってしまうんだよね。

その頃ボクの家族はなんやかんやあって、健全とは言えな状態になっていて、
そうなってくるといよいよ親戚なんてものが煩わしかったりでね。

そうしたら、朝早くボクらがまだ寝てる時間にばーちゃんがやって来て、
ウチの庭の草むしりとかするようになって、そうする度に太巻きもこさえてきて、
それを皿に移すと何を語るでも無く帰ってゆくなんてことが続いてね。

それはばーちゃんなりの心配の仕方なんだろうけど、
ボクはそういうことを「うっとうしい」と感じてしまう年頃「魔の思春期」だったからなあ〜、
「ばあちゃん、もういいよ〜」みたいなことを口にしたか、心で思ったか、
ともかくそんな感じだった。

で、
そんなことが2年ほど続いたある日、
いつものようにばーちゃんが置いて行った太巻きを見て、
思わず目を逸らしちゃったんだ。

形の崩れた太巻き。

ばーちゃんはもうあの立派な太巻きを作れなくなった。

泣きそうになりながらも
その意味を直視出来ないでいる「弱い自分」こそクソだって分かるし、
ばあちゃんに優しい言葉かけてやりゃーいいのに出来ない、
ほんとクソバカ思春期野郎。

そうしてばーちゃんはウチに来ることも稀になり、
そのうち寝たきりになり、

ボクがハタチの時の正月、
何日か口をパクパクさせ続けた後、臨終した。

そんな太巻きの記憶を、エゴ街道を突き進むその後のボクは、
心の奥底に鍵をかけて沈めてしまっていたのだけど、

息子が生まれて日々共にメシを食う生活の中、
なにかのタイミングで太巻きの記憶が解放されたみたいだ。

ボクはばーちゃんの太巻きを食って育ち、
ばーちゃんの太巻きに死を感じ目をそらし、
しかし、
ばーちゃんは最後に立派な死に様を見せてくれた。

ばーちゃんがボクにやってくれたことを思うと、
その後の人生の中でギリギリ道を踏み外さないでこれたのは、
ばーちゃんのこさえてくれた食い物に対し、
それを裏切るわけには行かないという気持ちがブレーキになってくれてたはず。

そういうことを、やっと、自分が息子を持ったことで気づいた。

そうしてあらためて思うばーちゃんの太巻きは、
甘いの、しょっぱいの、酸っぱいの、苦いの、味のすべてが海苔に巻かれた、
人生そのもののようなすごい食べ物なんだとね、

今回、のんちゃんに「記憶のレシピ」なんて展覧会にお誘い受けたことで、
振り返ることが出来た。

マジになにかやるってことは、そういうことだよね。

のんちゃん、ありがとう。

そして、
ボクは息子となにを食って生きてゆくのか、だな。

「食べる」ことに先回りしたストーリーをくっつけ押し付けられるようなことばかりの今、
しかし、そんなもんに振り回される生き方はしたかないな。
                     

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