ジョブズさんへ


ネットで繋がっている人とコミュニケートするために、
街や電車で、うつむいて両手を使っている目の前を、
飛び切りセクシーでエレガントで愛嬌さえある
カワイコちゃんが通り過ぎてゆく。

見逃したくないなあ~

10年前にiMacが来てから
もはや5台目のMacが家にあって、
iPodが1本
iPadも1枚ある

でも
どんなにiTunesやiPodが便利であっても、
それ用の圧縮を前提に作られた音楽に魅力は感じられず、
聞きたいと思う音楽も少なくなってしまったなあ。

ジョブズが見た未来は
電車の中で小さな液晶画面と向き合い
うつむき続ける人々の景色だったろうか?

ボクたちがMacの使いこなせていないのか
Macにボクたちが使われてしまっているのか

ともかく、
街から恋愛が失われてしまったような今、
ジョブズを越えた発想を手にしたいのなら、
Macを使わないことも1つの道なのかもしれないね。

でもって、
別の角度から。

ボクが足を運んだ震災の被災地で、
iPhone使って何かやっていたのは、
ほぼ東京から行ってるような人ばかり。

地元の方は目の前の現実と格闘。

そんな1人ヒトリの心模様まで「拡散」出来る道具を
人間は持っていないし、
そもそもそんな発想自体がグロテスクだったりする。

ジョブズがこさえたモノは
独創的な発想で創られた素晴らしく便利なモノではあるけれど、
万能だなんて勘違いはしちゃいけないよね。

そこには不完全さが残されていて、
一瞬一瞬で使い手の精神性が試されるような、
危うさを持った道具なんだと思う。

たとえばトンカチであれば、
これ以上いじる必要の無いシンプルなデザインと共に、
「これで人を殴ってはいけない」なんてシンプルなルールもあって、
あとはそれを使う人の技量と精神に委ねられる。

そんなところまで深化したら、
iPhoneを使うと思う。

でもって「夫婦喧嘩でiPhoneで殴られた」みたいな、
それが文化というものだ。

あとは絵のこと。

イラストレーションを作る作業の少なからずの部分で
Macを使っているけれど
(「絵を描く」ではなく「イラストレーションを作る」)

Macでの作業は何度失敗してもゴミは出ないけれど、
紙に絵の具で絵を描くような作業で失敗すれば、
すぐにゴミの山。

そのゴミの山が教えてくれる「品」なんてものがあるのだけど、
これはコトバで伝えても分らないことだろうな、、

などとPCとにらめっこしてタイプしている間に、
目の前を通り過ぎるカワイコちゃんを見逃してしまった、、

そんなこと、
ジョブスが許してくれるはず無いだろう。

喪失を創造に変えることこそ、
ジョブズさんへの供養であろう。

・写真はMacBookでアクセスしたAppleのHPを
 iPadのカメラで撮影しました

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