45ヶ月め
今日は2011年3月11日から3年9ケ月
1371日め
45回めの11日です。
アップした絵は、
2012年3月に出会った夕暮れ時の静かな気仙沼湾。
11月の末、
この絵を抱え2泊3日で東北へ。
気仙沼の唐桑のプランタンという場所で
ワークショップ&ファンキー紙芝居上演
『プランタンの冬のはじまりまつり』に合わせ
宮城の沿岸部を駆け抜けました。
東京駅発8時20分の新幹線で仙台まで
10時に駅前で「のりあいワゴン」の待ち合わせ。
3名での移動となりましたが、
それぞれ行きたい場所を申告しながら唐桑を目指しました。
極上の蒸し牡蠣や
大切にブランディングを進められているシャキシャキわかめをいただき
ともかく笑顔。
しおがま・みなと復興市場は行政その他の諸事情にて
仮設店舗の今後が怪しくなっているとのこと。
う〜〜〜む、、
これからも応援しますねー!
石巻はほぼ通り過ぎるだけでしたが、
2年ぶりに再会した被災の荒涼とした風景が
ほとんど変わっていないことに胸を締め付けられました。
そんな中でポツンと製紙工場くん、
黙々と働く姿が誇らしそうでした。
松島の沿岸や女川の手前の万石浦は波も静かで
木立から覗く太平洋に連なる海が湖のよう。
ここで暮らす人たちにとっては日常の風景だろうけど、
それはつくづく豊かなことなんだと思いました。
蛤浜という小さな入江の集落の古民家を利用したcafe
はまぐり堂で昼食。
9世帯のみが暮らしていた小さな漁村蛤浜は、
津波被害により3世帯5人にまで減少してしまった。
そんな地域の再生プロジェクトとしても営まれているカフェだけど、
食べたカレーは勢いのある旨さだし、
丁寧な焙煎のコーヒーも、美味しかったー!
なんつったって絶えず満席。
理屈を超えて「また来たい」そう思う場所でした。
そんなこんなの寄り道ですっかり遅くなり、
あたりも真っ暗な中でたどり着いたのが
気仙沼のヤッセコーヒー
U&Iターンなご夫婦が
昨年の春から営まれている自家焙煎のコーヒー屋。
「鹿注意」な山間の土地にあって、
気合いのコーヒーがマジでうれしい店。
もはや人気店であるってことも納得。
実は友人の友人であることがわかったけど、
いやいや、また来るね〜!
そして唐桑に到着。
宿泊はリアス唐桑ユースホステル
この地の海の恵みたっぷりの晩飯を食いながら、
それによく合う酒をクイクイやってて、
集まってくださったみなさんとあれやこれや語り始めたら、
あっという間に深夜3時、、
ここでのこと、色々ありすぎて書ききれません。
抱腹絶倒な50代60代のおっちゃんたちとの語らい、
というかもはや罵詈雑言合戦。
楽しかったなあ〜
ただ、その「今」は間違いなく、
東京で観念的に被災を想像しているボクらより
未来に存在する「今」なんだと思いました。
明けてワークショップ当日
会場となったプランタンは
茶処Printempsと花工房 non noとしてご家族で営まれている場所。
震災でお店を失ったご一家が一念発起。
高台にあった古民家を改造して喫茶と花屋にしました。
古民家改造っていうと
「オシャレにリノベーションしました」みたいな感じで
完結しちゃってる場合が多いけど、
ここは「だれかさんちの居間」そのものの空間。
トイレが広くて、そこにはオムツの取り換え台があって、
プランタンがこの土地でどんな役割を担おうとしているのか、
ジーンと感じる場所でした。
この日に至るまで密にコミュニケーションを重ねてくださったお陰で、
ボクがここでやることが「被災地へのほどこし」に陥ることなく、
この土地に暮らす人にとって必要とされているものになれたようです。
小さい子から昨晩の愉快な50代たちまで23名。
この規模が大きいのか小さいのか分からないけど、
ボクもボクが自分で必要とする表現を思いっきりぶつけて、
みなさんと表現で会話し尽くすことが2時間。
なんつったって
これがスタートだってことだね!
参加くださったみなさん
ご協力くださったみなさん
ありがとう
そう言う以上に
あ、プランタン
ナポリタンがめちゃくちゃ美味かった!
まいったなあ〜
里心ついちゃったよ
ほんと、またねー!
愛しき唐桑「春」のご一家よ。
そして夜は気仙沼へ
唐桑は現在は気仙沼市ではあるけれど
文化は「唐桑半島の唐桑」
そんな土地からトンネルひとつ抜けてたどり着く気仙沼は
やはり異文化の土地というイメージ
去年の2月から1年10ヶ月ぶりくらいだったけど、
沿岸部の大部分に建築規制がかけられたまま、
夜は相変わらずの暗闇。
それでも幾つかの商業施設が稼動を始めていました。
気仙沼ではマルト齊藤茶舗へ。
震災前にUターンされ気仙沼を中心にアートアクションを重ねている
斎藤道有さんをご紹介いただき、
ラーメンすすりながらなんやかんや語り倒しました。
なんやかんやの説明はなかなか難しいのですが、
それがいつかカタチになれば良いなと願いを込めつつ、
その発想はやはり未来で躍動しているものであって、
ともかくワクワクするんだよね。
気仙沼は三方を山に囲まれているけれど
目の前には唐桑半島や大島に囲まれた良港がある。
人々は川の流れを変え港を整備し、
多くの漁船を受け入れ、生きる豊かさの多くを海に求めた。
気仙沼から見たら
東京までの距離と世界との距離は
どちらが近いものだったんだろう?
東京にひとつ立派な価値観があるとして、
しかし、気仙沼の人たちは昔から勝手にグローバルし、
世界の価値観を間近に感じ、文化を熟成していたはず。
それは経済効率だけで推し量れない
1人ひとりの誇りの集積によって形作られていた。
今はどこの町も郊外に大規模なショッピングモールを持ち、
効率良く経済や文化が回されているが、
気仙沼はどんな顔をした街に再生されてゆくんだろう?
ボクは心の何割かは東北の沿岸部の町と並走させ
生きてゆく必要を感じました。
そんな語らいの場所、
名店と言われる喫茶マンボのラーメンが
つくづく美味い。
ここも津波の被害の大きかった場所だけど、
「このラーメン食わせたい」て心意気が
マンボをさらにキラキラと再建させたように思いました。
なんだかボクの心もキラキラに磨かれ
今夜の宿へ、
っと、
タクシーで何度も山道を迷い、
夜の暗さの怖さを知ったのも旅の醍醐味。
宿泊先は「つなかん」
鮪立(しびたち)という浜で流されずに残った漁師さんの御殿は、
震災直後からのボランティアの宿泊場所として使われたそうです。
そんな場所を牡蠣生産者のご一家が受け継ぎ宿として再建。
ここもまた人間パラダイスな場所で
出会う人出会う人が可笑しくてたまらねえ。
なんだろね、このエネルギー。
この辺りで漁業で成功した人は、
お大尽さんほど海に近い場所に御殿を建てたそうです。
もちろん津波のリスクを知ってのこと。
それでも海のそばに家を建てるマインドとは?
5~600メートルの山が急激に太平洋の海に落ち込む、
そんなリアス式海岸特有の土地のわずかな平地に暮らす人にとって、
目の前の普段は静かな海は、
お百姓にとっての田んぼのようなものであり、
そこにはあぜ道も通学路もあって、その先には夢や希望があった。
鮪立の浜の昔の写真を見せてもらったけど、
人の営みや欲や希望ってものが自然と共生して置かれた風景は、
どうしようもなくグッときちゃうものでした。
震災後宮城県の港湾部は
県主導でグルっと防潮堤で囲まれることになったそうです。
それに対して小さな浜で暮らしてきた方々は反対の声を上げた。
しかし、計画は一部見直されつつ実行されることに。
(鮪立では9.1mの高さが8.1mへ変更)
ここでボクの私感を語ることは簡単だけど、
それより、
余裕のある人はこういった土地を歩いて、
自分の目で見て自分の言葉で語った方が良いはず。
ボクは語るより描きたい。
そう思わせてくれた愛しき人々の暮らす愛しき土地。
ただ、漁師さんたちの悲しみや寂しさは
どうしようもなく心に沁みてくる。
この豊かさがこの土地に暮らす人にとっても
ボクたちにとっても希望であり続けるよう
さてどうしていったら良いのか
考える。
考える。
帰り道
気仙沼駅までの道の両側はかさ上げ工事が進み、
震災から1年後にランニングした道は谷底のようになっていた。
その風景は「復興」ではなく「復興へのインフラ整備」
お茶屋さんの女将さんが
「復興は、まあ、1パーセントだね」としみじみ語ったのは、
ボクの実感と重なるものでした。
それでも、人は元気な限り未来を想像し生きてゆける。
そんな実感も手にした今回。
「義援」「支援」なんて季節を越えて、
これから本格的に「みんながやれること」「やるべきこと」が
待っているように思いました。
うん、
ほんと余裕あったらどこでもいいから歩いてみたらいい。
この旅を企画してくださった
気仙沼唐桑に恋をしたHanaちゃん
現地でサポートくださったさいちゃん
あいのりワゴン飛ばしてくださった
やはり気仙沼LOVEな増島さん
プランタンの小山さんご一家
多くの語らいと笑顔の時をくださった
すべてのみなさん
ありがとう
ワークショップを前にプランタンに
「東日本」の絵を数点送りました
その絵とプランタンが見せてくれた風景
ボクが次になにを描くべきか、
だけじゃなく、
どんな価値観を持って生きれば良いのか、
教えてくれたように思います。
もう一度
ありがとう
PEACE