8月15日


終戦記念日である8月15日は福島県のいわき市へ
ごく個人的な取材としてのフィールドワーク

6月11日に復興ボランティアとして訪れた際
チャーターバスで実にインスタントに行ってしまったな〜と

自分の足で歩いてヒトリのサイズで向き合っておこうと
常磐線スーパーひたちに飛び乗りました

上野から片道2時間16分
乗車券と特急券を合わせて5880円

高速バスも安価で便利が良いのだけど、
仕事の合間の“衝動旅”なので特急を利用しました


いわき駅前で昼メシ
飛び込みで入った焼き肉店でホルモン焼定食

これが予想を越えて旨くて、
これだけで「またいわきに来たい!」と思いつつ
路線バスに飛び乗り

6月に行った豊間の海岸を目指しました


1時間に1~2本運行されているバスは
被災地の停留所いくつかを迂回して
臨時のバス停を設けていました

運転手さんが最寄りの停留場を教えてくれ
県道沿いで下車

そこは穏やかな田舎の景色でしかないのだけれど
県道から1歩2歩と集落に足を踏み入れると
津波被害の「紙一重」の景色

前回はバスから直接被災地へ降り立ったわけで
生と死の強烈なコントラストは
やはり自分の足で歩いてこそ感じられるものでした

そして
ボクが訪れた日から2ヶ月
「被災地」は相変わらず3月11日で時が止まったままでした

お盆の時期です
かつて家だった場所で手を合わせておられる方がいたり
すれ違う方とはどちらからともなく会釈を交わしたり

ただ誰とも口をきくことはせず
ここで生活されていた人たちが肌や足の裏で感じたであろう何かを探りながら
歩き続けてみました


豊間の海岸を北に歩き切ると塩屋崎岬

木下恵介監督の作品「喜びも悲しみも幾年月」の原作は
ここに建つ灯台に赴任してきた灯台守の奥様が綴られたものです

明治32年に建てられ
その後何度かの地震の被害や太平洋戦争戦渦で失われては再建されてきた灯台

それは現在は東日本大震災の影響で消灯されたまま
見学することも禁じられた状態です

それでもこの日は多くの観光客が車を停めて
灯台を見上げ
灯台から連なる集落の惨状を目に焼き付け
目の前に広がる海に畏敬の念を感じる
そんな時を過ごしていました

この土地の方々にとって誇りであったはずの灯台が
復興再建への希望の塔であればなあと願い
ボクはボクの仕事を通し
この土地の美しさを伝えてゆかなければと思いました


路線バスで来た道を戻ります

途中とても美しく豊かな田園風景が広がっていたので
バスを降りて歩いてみました

いわき駅からわずか3~4kmの距離に広がる日本の原風景のような土地


豊かな実りを感じさせる稲が小雨に濡れてきらめいていました

福島第一原子力発電所から30キロとちょっとの美しい景色

そこでの米作はありとあらゆる心配が積み重ねられているはずです

それでも
ボクはこの美しい景色を心に刻み
なんとか被害が最小限のものであることを願い
ここで生きる人々の未来が希望のあるものであるよう
出来ることをやってゆきたいと思いました

この日は
いわきに古くから伝わる新盆の郷土芸能
じゃんがら念仏踊りが奉じられる3日間の最終日

ボクの古くからの知り合いで
いわき出身のパーカッショニストのASA-CHANG
震災後の個人的な復興支援のあり方として
この太鼓を学びこの3日間で新盆を迎えた家などを供養して回る
じゃんがらに参加するとのこと

ASA-CHANGのアクションとじゃんがらのことをネットで知り
http://pj-fukushima-iwaki.tumblr.com/

その姿に出会ったみたく思ったのですが、
新盆という極個人的なことに奉じられることなので、
今回はどこかで偶然でも出会えたらいいな、
なんて感じで歩き回って

結局じゃんがらには出会えなかったのだけど、
その独特のリズムを耳で覚えた状態で歩くと、
そこにはそこで生きてきた人たちの生活のリズムが見えてくるわけで、
それはそのままボクの生まれ育った土地でも、
今生活している土地でも発掘出来ることであり、
ASA-CHANGが提示してくれたことは、
ボクにとってとても重要なこと、
もしくは
これからモノを創ってゆく上での羅針盤の様でさえあると思いました。

それにしても“じゃんがら念仏踊り”
そのリズムも踊りも面白くてね、
まるで沖縄のエイサーのようであると思ったら、
まさに開祖が一緒だとのこと。

これはいつかちゃんと出会ってみたいね!

と思いつつ
バスでいわき駅へ

帰りの電車ギリギリの駅前で出会った
じゃんがらとは別の流派だけど
やはり新盆に方のされる山笠踊りの“連”に遭遇

家族を失った人の家を巡っては
飛び切り華やかな賑やかしをして故人を偲ぶ

人が積み重ねてきた智恵ってスゴいよ

今は復興の縁にもたどり着けていないはずの被災地ではあるけれど
もともとボクたちが持ち合わせていた智恵と
1コ1コ獲得してゆく新しい智恵とを組み合わせて
人が人らしく生きてゆける土地を創造してゆかなければだね

それは被災地では無い
今ボクが住んでいる場所でも一緒のことで
それをいわきという町が教えてくれたんだと思います

想像以上にオシャレな若い女の子たちが歩いていた駅前
汗でグッショリになったTシャツを着替え
後ろ髪を引かれる思いを抱きながらグッバイ

でも
またうかがいます。
愛しきいわき
PEACE!!

コメント / トラックバック 2 件

  1. とみい より:

    アミイゴさん、お久しぶりです。

    8月、アミイゴさんは豊間に行かれたのですね。
    私は同じ頃、仙台に行ってました。
    仙台は沿岸の地域の一部でライフラインが完全に整っていないところもありしましたが、
    市街地は大きな地震があったとは思えないほど、素晴らしく平和でした。
    その中にいて『豊間はどうなっているんだろう?』と考えていました。
    そしてこの記事を読んで、また泣いてしまいましたよ。
    豊間で出会ったおばちゃんやおじちゃんたちのことを思い出すと、泣けて泣けて仕方ありませんよ。
    私もまたいつか、近いうちに豊間に行こうと思います。

    東北の秋は、あっという間に通り過ぎて、すぐに冬が来てしまいます。
    東北に人たちには、少しでも暖かい気持ちで厳しい冬を迎えてほしい…。
    私に何ができるのか、改めて考えてみますね。

  2. 小池アミイゴ より:

    >とみいさん。
    6/11の豊間を経験して、
    個人で出来ることは
    なにか小さなものを個人に手渡すことくらいなんだろうと、
    しかし、
    それをみんなでやればデカイ力だなあ〜と、
    それはなかなか難しいことなんだけど、
    ヒトリでもボクがバカになってやり続ければいいと、
    そう思う半年後の今です。

    それにしても、
    いわき市であっても、
    たった数キロとか、
    通りを1つ2つ越えただけとかで、
    温度差もあれば風化もありますね。

    そこを越えてゆけるのは、
    やはり個人なんだと思うのです。

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